2014年04月23日

明治以前の長野

善光寺の門前町として

 

 長野は善光寺の門前町です。全国的に見ても門前町に県庁が置かれたという例はあまりありません。多くの県庁所在地はかつては城下町でした。

 長野の場合は、後に記すように県庁が置かれていた中野が焼き討ちにあい、緊急避難的に県庁が移され、それがそのまま現在に至ったものです。

 もっとも中野から長野に移すにあたっては、善光寺の門前町であったということよりも、当時北信濃でいちばん繁栄していた町であったということが大きな要因となったようです。長野は門前町ではありますが、幕末の頃には商業都市として大きな発展を遂げていました。

  善光寺が創建されたのは奈良時代ではないかというのが現在では通説となっています。平安時代になると都にもその名が知られるようになり、その頃には門前町もできていたのではないか推測されます。

 鎌倉時代、源頼朝や執権北条氏の信仰もあり、善光寺には多くの参拝人が訪れていました。室町時代に書かれた『大塔物語』の中に「およそ善光寺は三国一の霊場、生身の阿弥陀様の浄土であり、日本の港とも言えるほど人の集まるところであって、門前市をなしている。」というくだりがあります。院坊が整備され、僧侶や仏師などの職人が住んでいたという記録も残されています。

 川中島の戦いでは、善光寺如来が武田信玄によって甲斐に移され、一時は町は廃墟のようになってしまいました。しかし、江戸時代になると善光寺如来も戻り、門前町は再びにぎわいを取り戻したのです。とりわけ大門町はその中心としておおいに栄えました。

 江戸時代はじめには街道も整備され、北国街道の正式なルートとして善光寺宿経由の道が認められました。それにより善光寺宿は、善光寺の参拝人や北国街道を旅する人たちの宿場町として大いに栄えました。

 江戸時代の宿場は、旅人を泊める宿としてだけではなく、荷物の中継点として、つまり問屋としての役割も担っていました。善光寺町では、伝馬役をつとめる大門町だけが宿を営む権利を持っていました。しかし、他の町でも客を泊める者はあとを絶たず、宿同士の客の奪い合いもあって、常に争いのもとになっていました。特に善光寺の院坊と権堂の水茶屋との争いは大きなものでした。

 院坊の場合、善光寺参詣の客だけを泊めていました。それぞれの院坊が地盤を持っていて、どこどこから来た者はこの院坊に泊まるということが決められていたのです。しかし、院坊の中には客引きを出して、一般の客を引き込むところがあり、大門町の宿では常に目を光らせていました。

 権堂の水茶屋は元禄時代からありましたが、江戸時代の後半になると三〇軒以上の水茶屋が二百人以上の女を雇って商売をするようになっていたといいます。これらの店も旅の客を泊めたので、大門町では再三にわたって水茶屋の廃止を訴え出ました。この争いは幕末まで続きました。

  江戸時代、善光寺町では一、四、六、九のつく日、すなわち月に一二日市が開かれていました。鎌倉時代から市は開かれていたようですが、規模が大きくなり十二斎市が開かれるようになったのは江戸時代からです。

 市ははじめ善光寺に近い大門町、東町、西町で開かれていましたが、時代が下るにしたがって、善光寺町全体で開かれるようになりました。ここには近郷近在からさまざまな商品が集まってきました。なかでも、麻・和紙・菜種油などは商品作物として高い値で取引され、この地の商人たちは多くこれで財を成したのです。  

Posted by 南宜堂 at 11:01Comments(0)長野の町

2014年03月12日

「信濃の国」考 3


 その後、病気で休職した依田弁之助に代わって音楽教師として北村季晴が青森から赴任して来る。彼は東京生まれの東京育ち、明治学院から東京音楽学校に進んだという新しい時代の青年であった。
 そんな彼に運動会に行う遊戯の作曲が依頼されたのだ。この作曲に彼はずいぶん苦しんだようである。浅井の詞「信濃の国」を選んだのは、詞として格調高く優れているということもあっただろうが、長野県内の名所旧跡をあまねく詞の中に歌い込んでいるということも北村が選んだ理由ではないかと思う。
 師範学校の生徒は県内各地から来ている。教師もまた同様である。この詞が好まれないはずはないと北村は思ったことだろう。
 さらにこの曲調である。女子の遊戯といえば「美しき天然」といった優雅なメロディーのものが選ばれると思いきや、意表をついて「信濃の国」だ。運動会の観客に新鮮な衝撃を与えたことは間違いない。
 北村自身の言葉ではないが、浅井が北村から聞いた話として、先の回想の中で次のように述べている。
「北村君は作曲した後で依田君の作った譜のあることを聞いて、それがあるならば別に作るのではなかったが、知らぬ故に女生徒の請うままに運動会の前に急遽作曲せり、蓋し依田君の譜は高尚にして宜しけれども習ってよく練習せねば誰でもまねることは難しいが、我が作曲は卑近平凡にして誰にもまねがしやすいから広く一般に歌うには我が作曲の方が歌われるならん。但し第四戴は練習を要する云々と語りたり。果たして作曲の難易に関せしにや。」
 最後の一言が意味深である。北村は謙遜してああいっているが、結構自信をもって作曲したのだということが浅井にはわかっていたのだろう。
 その後の「信濃の国」は師範学校の校歌となり、卒業生によって県内各地のこどもたちに伝えられていったことはご存じの通りだ。しかし、あの運動会の日の最初の衝撃がなければ、こうまで長く歌い継がれる曲とはならなかったかもしれない。
   

Posted by 南宜堂 at 21:00Comments(0)

2014年03月11日

「信濃の国」考 2

 浅井洌が師範学校の教師となって長野に来たのは明治一九年のことである。それまで浅井は松本にあって開智学校や松本中学の教師をつとめていた。明治維新までは松本藩の藩士であった。長野に来た当初は善光寺に近い立町に住んでいたが、その後妻科に移った。
 その浅井が信濃教育会の依頼により「信濃の国」を作詞した経緯は先に記した。その後、明治三二年、北村季晴が長野師範の教師になって青森から赴任してきた。この時北村の下宿の世話をしたのが浅井洌だった。浅井はたまたま自分の家の隣に格好の家を見つけ北村に紹介した。こんなことから二人の交友がはじまり、現在の「信濃の国」が生まれたというわけである。
 その北村が「信濃の国」に曲をつけるようになったいきさつを再び、浅井洌の回想から振り返ってみよう。
「次いで明治三十六、七年頃女子師範生徒(男女師範の併置)が秋の運動会に此の歌を遊戯に用いましたが、依田君の作曲あることを知らず、その時の音楽教師北村季晴君に作曲を請いてそれを運動会の日に発表しました。それから此の歌漸次広まり小学児童は勿論、子守も丁稚も途中を歌い歩くようになりました。云々」
 この回想文から見る限り、運動会の遊戯用にと浅井が北村に作曲を依頼したかのように述べられているが、この時浅井がすでに曲があることを知らずに北村に作曲を依頼したというのはどうしても浅井の記憶違いというほかはない。なぜならば、信濃教育会からの依頼は作詞と作曲をセットでなされたものであり、そのことは浅井は知っていたはずだからだ。昭和九年というと浅井の晩年である。記憶が薄れていたのかもしれない。
 中村佐伝治という人の書いた『信濃の国物語』という本によると、浅井と北村はたまたま下宿が隣同志で親しく行き来していたようで、浅井の家を訪問した北村が「信濃の国」の詞を目にし、「素晴らしい詞だから是非自分に作曲させてほしい」と懇願したと書かれている。
 真相というのは百年以上も時がたってしまうとなかなかわからないもので、当事者たちも亡くなっているし、話を伝え聞いた人たちも年をとってしまう。ましてや「信濃の国」のような超有名曲になると、その成立の過程は半ば伝説となってしまいがちだ。
 当時の関係者の人たちの証言を総合して判断するならば、北村作曲の「信濃の国」が運動会の遊戯用に作曲され、発表されたということは間違いないようだ。おそらく校長などから運動会用に曲をつくってくれるように依頼されていた音楽教師北村は、たまたま浅井の詞を見てひらめくものがあったのではないか。彼は後に上京しプロの音楽家になったくらいの人だから、その感受性は人一倍鋭かったことだろう。  

Posted by 南宜堂 at 20:42Comments(0)

2014年03月10日

「信濃の国」考 1

多くの県に県歌とか県民歌というものがあるが、「信濃の国」ほど県民に親しまれている県歌はないのではないか。
長野県民が二人よれば「信濃の国」が出るとか、信州人の集まりには必ず万歳と「信濃の国」がつきものだとか言われるのだから。まあ、それは少々大袈裟だとしても、たいがいの信州人は二番くらいまではそらで歌えるのではないだろうか。
そんな「信濃の国」だが、作られたのは明治三一年というから百二十年近く前の話だ。その辺りの事情を、作詞者の浅井洌は後に次のように回想している。
「初め此の信濃の国の歌を作りましたのは、明治三十一、二年頃と思いますが、たしかな記憶はありませぬ。動機は信濃教育会において、本県下に関する地理や歴史等の題を選び、それを長野県師範学校の国語担任の内田慶三君とわたしとで手分けして作りました。深く考慮もせずに、只地理歴史の事柄で取り合わせて叙述したに過ぎません。それを当時の師範学校音楽教師依田弁之助君が作曲し、師範生徒などに教えましたがその時は余り歌われずに忘れられていました(後略)」
これは昭和九年に浅井が、「信濃の国」を作った時のことを思い出して語っているものだ。「信濃の国」は信濃教育会からの依頼によって作られたものであった。実はこの時「信濃の国」のほかに「諏訪湖」「浅間山」「川中島」「養蚕」「村上義光」「宗良親王」といった詞が作られ、いずれも依田弁之助が曲をつけている。
これらの唱歌を作った信濃教育会のねらいについては、浅井の文章には触れられていないが、おそらく唱歌の教材として当時は適当なものがなかったこと、郷土愛を育てるために唱歌教育を役立てようというような目的があったのではなかろうかと思われる。
特に「信濃の国」については、当時から険悪であった南北の対立を解消し、信州一国意識をそだてようという目的もあったのではないかということがいわれているが、はたしてそうなのか、このことは後になって考えてみたい。
いずれにせよ、唱歌は作ったもののたいして歌われることもなくそのうちに忘れられてしまったようだ。この忘れられた「信濃の国」をよみがえらせたのが北村季晴であった。  

Posted by 南宜堂 at 21:03Comments(0)

2013年12月29日

「真田戦雲録」(仮題)ようやく脱稿。


幸村の魅力について。負けることを知りながら、自らの信義を貫き通して散った好漢という通説は少し違うのではないか。大坂城の幸村は、人からは小柄な病気がちな初老の武将という印象を持たれていたようだ。また、戦いの前に故郷上田に出した書状には家族への細やかな心配り、自らの運命を静かに受け入れようとする思いを読み取ることができる。34歳で九度山に流された後の幸村は、経済的な困窮と孤独の中で世捨て人のような生活を送っていたようだ。そんな折届いた大坂からの誘いは、最後の生き場所、最後の死に場所と思えたのではないか。

兄の信之は、地味で目立たない男として、真田の物語でも影の存在である。しかし私は信之という人は相当に我の強い人であったと思っている。上田から松代に移封の際、上田城の植木を根こそぎ引き抜いて持って行ったという挿話が伝わっている。石垣までも持ち去ろうとしたようだが、流石にこれは動かなかった。京都に隠棲しようともしたらしい。
そういう思いを全て自らの心の奥に押し込めたのは、家のため家臣のため真田家を存続させるためであった。「例え片輪になられて候とも、御家のつづき候ように御生き候て下さるべく候」という城景重の忠言を守ったのである。
信之の辞世の歌が残されている。
西へちろり東へちろり暁の明星のごときわが身なりけり
  

Posted by 南宜堂 at 08:22Comments(0)