2007年05月16日

長野市の誕生

 城山公園に隣接して城山小学校があります。ここは明治の頃は長野学校といっていて、ここに長野町の役場がありました。この長野町ですが、明治三十年四月一日を期して市制が布かれることになりました。三国伝来の善光寺如来のお膝元がいつまでも町のままではいけないと、時の首相松方正義らに陳情を重ねてきたのが実ったものです。市制施行の基準は人口二万五千人、長野町の人口は当時で二万九千二百八十五人と三万人に少し足りないくらいでした。この条件には十分あてはまります。
 祝賀式は、長野町の役場で行われました。高崎県知事、中村市長事務取扱をはじめ来賓三百余名が列席しての祝賀式、続いて会場を城山館(現在の蔵春閣の地にあった)に移しての祝宴が盛大に挙行されました。
 明治維新を迎えて、政府の政策で殖産興業が叫ばれるようになっても、長野には近代産業といえるほどのものがなかなか育ちませんでした。明治の末になってさえ、「長野の煙突は鉄道工場と刑務所の二本だけ」と揶揄されるありさまでした。
 そんな長野でしたが、全国で四十三番目とはいえ市制を布くまでに人口が増加したのは、何といっても県庁の存在が大きかったのです。袖長野に県庁が新築された明治七年頃から官吏の家ができはじめ、明治八年に師範学校が現在の市立図書館の地に建設され、十一年に県営の模範製糸場が現在の信濃教育会の地にできるなどして長野も町らしい体裁が整えられてきていました。
  

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2007年05月16日

城山公園


 城山公園は、善光寺の東側一帯に広がる公園で、かつては野球場、テニスコート、公民館、動物園、美術館が点在する文字どおり長野市民の憩いの場所でした。また、善光寺に隣接するということもあり、常に一対のものとして長野市民にはおなじみの場所でした。たとえば、善光寺参りの帰りに境内の茶店で甘酒を飲み、城山公園で弁当を広げるという具合です。また、善光寺の御開帳の時などは城山公園で博覧会が開かれたりもしたものでした。
 城山の起こりは、県社(建御名方富命彦分神社)の場所に横山城があったことによります。横山城は、横山信濃守によって鎌倉時代に築かれた城であるといわれています。川中島の戦いの際には、上杉謙信の本陣にもなっています。
 それより前は、仮寝ヶ丘といっていました。日本武尊が東征の帰途、ここを通った際、雁の鳴く音を聞いたので「雁音が丘」と名付けたのがその由来であるといいます。
 明治三十六年(一九〇三)五月、明宮皇太子(大正天皇)の御成婚を記念して城山公園が造成されました。現在の蔵春閣の南側の斜面を整備して作られたもので、総工費七千二百円をかけた日本式の庭園であした。ここからの眺めは素晴らしく、千曲川や犀川をはじめ善光寺平が一望できました。現在城山公園と呼んでいる信濃美術館のある西洋式の公園とは別の場所です。
  

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