2009年08月02日

赤松小三郎のこと

 司馬遼太郎が「竜馬がゆく」を新聞の連載小説として書いたのは、1962年から66年にかけてのことだった。時代は60年安保闘争の終結後、日本は高度成長に向かおうとする時代であった。
 それ以前の坂本龍馬が歴史の中でどのように評価されていたのかは浅学にして知らないのだが、現代の龍馬像はほとんどがこの司馬の小説を下敷きにしているようなのである。
 坂本龍馬の人間としての魅力は多分に司馬遼太郎によって造形されたものであるように思われるが、明治維新後の国家像を「船中八策」という形で語り残したこと、道半ばで凶刃に倒れたことも後世に評価される要因であろうと思われる。
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯|及《および》天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議を採り、新《あらた》に至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍宜しく拡張すべき事。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
 これが夕顔丸で長崎から京都に向かう途中、坂本龍馬が後藤象二郎が語った「船中八策」とよばれるようになるものなのだが、実はこれ以前に同じような構想を抱いていた人物がいたのだという。
 その人物の名は赤松小三郎、上田藩士であった。赤松 小三郎は天保2年(1831)の生まれ、上田藩士芦田勘兵衛の次男で、後に赤松弘の養子となった。藩校の明倫堂に学び、江戸の内田弥太郎・佐久間象山・勝海舟、長崎のオランダ人に師事し、数学・天文学・蘭学・兵学・航海術などを学んだ。。
 英国歩兵練法を翻訳した。京都に私塾を開き、兵法を教える。薩摩藩に招聘され、桐野利秋(中村半次郎)・村田新八・篠原国幹・野津道貫・東郷平八郎・樺山資紀・上村彦之丞らを指導した。慶応3年(1867年)5月には越前福井藩主・松平春嶽に議会の設置を初めて提唱した。坂本龍馬の「船中八策」は、この時小三郎が提出した「御改正之一二端奉申上候口上書」の内容をまねたものだとも言われる。
 出身地の上田藩より度々召還命令を受けたが拒否をし続けたものの9月に呼び戻された。その帰国の途中の京都・東洞院通りで中村半次郎と田代五郎右衛門に暗殺された。公武合体を唱えていたのと、薩摩藩に幕府のスパイだと思われたためだとされる。
 この忘れられた幕末の思想家について、明治35年信濃毎日新聞の主筆をつとめていた山路愛山は次のように評価している。
「当時の政界において先ず此の説(日本最初の公議政体による議会政治思想)を唱えたるは坂本(龍馬)、後藤(象二郎)に非ずして彼(赤松小三郎)なり、信州男児よ記憶せよ。新日本を孕みたる公議政体論を唱えしは土州人に非ずして信州男児なり是豈愉快なる事実に非ずや」
 赤松の優れたところは兵学から発して、日本のあるべき姿まで構想したというところではなかったか。そういう意味では佐久間象山よりも一歩先を見ていたような気がする。しかし、今赤松の存在を知るものは少ない。
 象山や龍馬と同じように凶刃に倒れた赤松、しかも暗殺の理由たるや薩摩藩の秘密が幕府や会津に伝わるのを恐れていう理不尽なものであった。


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Posted by 南宜堂 at 23:32│Comments(4)幕末・維新

この記事へのコメント

こんばんは。

 赤松小三郎のことは、わたしも以前、小説に書いたことがありました。謎の多い人物ではありますが、何処となく不思議な魅力のある青年ですね。
 赤松の西洋兵学塾には、薩摩藩士から、敵対する新選組の隊士までが学びに来ていたということで、おそらく、薩摩藩は、かなり赤松を警戒していたのではないでしょうか。わたしは、彼のことを、ある意味、坂本竜馬よりも先を見ていた人物ではなかったかと、思っています。
Posted by ちよみ at 2009年08月03日 00:27
 赤松小三郎については、井出孫六さんが「小説 佐久間象山」に「カステーラの匂いのするような」と書かれていて興味を抱きました。信州のような山国から海外に目を向けた人物がいたことは、少しは誇りに思ってもいいような気がしますが、象山ほどには有名ではありませんね。
 幕末の志士といわれる人たちのほとんどが維新後の政体について構想をもっていなかった中で、赤松のような人物を維新後に活躍させてやりたかったと思います。
Posted by 南宜堂南宜堂 at 2009年08月03日 09:08
久しぶりにお邪魔します。
赤松〇〇かわかりませんが、数年前小布施の「高井こうざん博物館」で 暗殺された幕末の信州人武士の写真が数枚展示されてたの見たからもしかしたらそれが赤松〇〇?。
高井こうざんは小布施から出なかったから暗殺されなかったけど(葛飾北斎にスパイされてたのは今じゃ有名な説ですが)、迂闊に物申せない物騒な世の中だったのは確かですね。
Posted by ブランフェムト at 2009年08月09日 15:25
ブランフェムト さま
洋装の軍服を着ていれば赤松小三郎だと思います。
あの時代は簡単に人殺しをするような時代だったのですね。
わけもわからず熱狂していた者たちに、象山も小三郎も殺されてしまいました。象山を殺した川上彦斎など、後で象山の偉大さを聞いて、それ以来人切りをやめてしまったのだといいます。
Posted by 南宜堂 at 2009年08月09日 20:58

 
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