2010年03月17日

「幕末軍艦咸臨丸」のこと

 明治30年、アメリカ合衆国サンフランシスコでのことであった。日本から洋服づくりの修業に来ていた文倉平次郎は、ローレルヒルの草むらの中に埋もれた二基の日本人の墓を発見した。
 そこには「日本海軍咸臨丸之水夫」の文字が読み取れた。異国の地で、病を得て死んだ咸臨丸の乗組員の墓であった。翌年、彼はもう一基の墓を発見する。文倉平次郎は、このことが動機となって「幕末軍艦咸臨丸」という大部の本を書くに至ったのだと、その緒言に記している。
 文倉は軍艦についても歴史についても、専門的な教育を受けた人ではなかった。生まれの江戸日本橋、魚問屋の倅であった。養子に行った先が洋服店で、その修業のために20歳の時単身で渡米したのだという。
 咸臨丸の水夫の墓を発見したことが契機となって、その関係の資料を蒐集しはじめた。本格的に研究をはじめたのは、勤めていた会社を定年で退職してからであった。そして昭和13年、四十余年の時を経て「幕末軍艦咸臨丸」を上梓したのであった。
 司馬遼太郎は、中公文庫版「幕末軍艦咸臨丸」の解説で次のように述べている。
「私は幕末の海軍関係を知ろうとおもい、一時期、書かれたものをあさったことが、幕府関係の艦船を知ろうとするについてはこの書物を読む以外に方法がないということがわかった。これほど精緻ないわば原典に近い名著が、専門家でもなんでもないひとによって書かれたということについて、人間の情熱というもののふしぎさを、書棚でこの本の背文字を見るたびに考えこまされる。」
 単身異国で暮らす文倉に、咸臨丸の下級乗組員としてはるばる海を越えてきた者たちの死は、深い同情と共感を生んだことだろう。彼らはいずれも讃岐塩飽諸島や長崎から連れてこられた者たちであった。「幕末軍艦咸臨丸」の他の本にない特徴は、そんな名もない水夫たちの事蹟まで丹念に追ったことであった。
 「幕末軍艦咸臨丸」によれば、咸臨丸に乗組んだのは、木村摂津守、勝麟太郎以下士分の者24名のほかに、水夫50名、火焚15名、大工1名、鍛冶1人の合計91名であった。
 



Posted by 南宜堂 at 20:22│Comments(0)
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