今日は楠木正成の命日
建武3年5月25日(新暦に直すと1336年7月4日)、楠木正成は湊川の戦いで足利直義の軍と戦い敗れて、弟の正季と刺し違え自害しました。楠木正成といえば「太平記」の英雄、忠臣として有名です。南宜堂、こうみえても戦後の教育を受けた人間でして、戦前の学校で楠木正成がどのように教えられていたかということはよく知りません。しかし、この出自のよくわからない河内の悪党といわれる正成がいまだに多くの人々に知られているということはなぜなのか、そこには戦前に行われた皇国教育の影響が未だに尾を引いていると考えざるをえません。
楠木正成に限らず、いわゆる歴史上の人物というのはどのように伝えられてきたのかというと、系統だった学問などというものがない時代は語り物なんかを通してその人物像が語られてきたようです。たとえば、日本人なら誰もが知っている源義経の活躍は琵琶法師によって語られた「平家物語」を通して人々の間に伝えられていったものでしょう。「平家物語」はほかにも平敦盛と熊谷直実の物語、那須与一の物語と多くの有名な話を伝えています。しかし、これらのことが歴史上に本当にあったことかというと、事実として多少の痕跡は残しているでしょうが、長年の間に人々に受けるように造りかえられ、洗練され、物語として完成されていったものでしょう。
現代でもそういうことはあるわけで、よくNHKの大河ドラマに取り上げられる歴史小説といったものにしても、そうとうに作者の創作が入り込んでいるわけです。
楠木正成の物語は、戦前の教科書によって意図的に忠臣の物語へと改作されていったようです。「青葉繁れる桜井の」ではじまる唱歌も天皇のために死ぬ悲壮な決意が英雄的に歌われています。このことは楠木正成の罪ではないでしょう。彼は忠義のためと言われることにもしかしたら迷惑しているのかもしれないと思います。彼が足利尊氏と戦ったのは、自分の野心のためであり、自分の家臣を守るためであったわけで、決して忠義ためではなかったでしょう。
先の世界大戦においても特攻機に乗って自ら命を絶った若者たちは、公式には「天皇陛下万歳」と叫んでということになっていますが、実際はそのことが果たして自分の命を捨てることの理由になったのか。やはり、こじつけであっても国土を守るとか家族のためとかという理由をつけて自らに言い聞かせていたのだと思います。