そして突然の閉店

南宜堂

2007年04月17日 23:47


 「松代のいなか者が、権堂のまん中で商売をしてもうまくいくはずがねえ。三月か半年もてばいいほうだろう」
 松代の美濃屋呉服店の主人長沢太一が、丸光の経営を引き受けた時、そう言って陰口を叩く者がいたそうです。昭和二十四年(一九四九)八月一日、長沢は権堂に丸光を開店します。権堂の丸光は順調に売り上げを伸ばした。一日五万円の売り上げを目標にしていたのが、いつのまにか十万円を越えるようになりました。
 売り上げが伸びるにしたがって、だんだん売場が手狭になってきました。しかし、権堂はどこも建て込んでいて、これ以上店を広げることができません。そんな事情から長沢は、問御所への進出を決めたのでした。
 丸光の開店により買い物客の行動パターンに変化がみられるようになりました。丸光を訪れる客は平日で五千人、日曜になると二〜三万人にのぼったといいます。日曜日の客の多くは家族連れで、彼らは必要な物を買いに来たというよりは、エスカレーターに乗って各階をまわり、大食堂で食事をするという新しいライフスタイルを楽しみに来たのようです。
 昭和三十一年度の『経済白書』に「もはや戦後ではない」という有名なフレーズが登場します。長野にもサラリーマンが増え、消費ブームが起ころうとしていました。人々は、家族連れで気軽に行ける行楽の場を求めていたのです。
 シャワー効果というのでしょうか、長野銀座の商店も丸光の誘客力のおかげで売上げが増えたことは前に述べました。デパートや量販店の進出については、脅威ですから地元の商店はまずは反対をします。しかし、ある時点からシャワー効果をねらってか積極的に大型店を誘致するようになった商店街も多数あります。長野銀座もダイエーの出店については反対というより歓迎の姿勢をしめしました。
 丸光や丸善やダイエーが長野銀座にとってありがたい存在であったのか、時代によってその評価は分かれます。商業の中心が郊外にうつるにしたがって、量販店といえども集客力はなくしていきます。
 開店から半世紀近くが過ぎ、「長野そごう」と名前の変わったデパートは、二〇〇〇年七月十二日突然に店を閉めました。親会社「そごう」の経営危機で早晩閉店の運命にあったとはいえ、長野市民には不意打ちを喰ったような閉店でした。同じ年の十二月、こんどはダイエーが撤退をしていきます。
 時代の変化に対応できなかったからといえばそれまでですが、屋上の観覧車に乗るのを唯一の楽しみにしていた世代にとっては、さびしい夏の出来事でした。
 いま、長野銀座には丸光やダイエーにかわって門前プラザとトイーゴのビルができました。どちらにも放送局や市の施設が入り、中心市街地復興の起爆剤となることが期待されています。しかしこれらの文化施設の集客がシャワー効果となって周囲の商店をうるおすのか、その期待は飲食店以外はあまりあてにはならないのではないかと思います。ここまで来るとまた「町は必要か」という課題にぶつかってしまうわけですが、回答はもうしばらく保留にしておきたいと思います。