「信濃の国」

南宜堂

2007年07月01日 07:34


 最近長野県民となった方と話す機会がありまして、たまたま「信濃の国」の話題が出ました。よそから来た人にはあれは不思議な歌のようですね。私たちはよく知っていますから、全国的に有名な歌ではないかなどと思ってしまいますが、よその県の人はまったく知らない歌のようです。あたりまえか。
 修学旅行に行って、たまたま乗り合わせた長野県出身の人の前で歌ったらおかしをいっぱいもらったとか、それと反対に、長野に修学旅行に来る関西の高校生は事前に「信濃の国」を練習するのが必須だというのです。「Hamidas」というびっくりするほど売れたローカル出版物に紹介されています。「バスで宿屋の前につくと、やおら「信濃の国」を歌い出す。出迎えた旅館のあるじ、最初は驚くがやがて嬉しくなり、かくて夕食の品数が一品増えるという次第。」なるほど、さすが関西の高校生です。
 そんなありがたい歌が長野県歌となったのは昭和43年といいますから、ずいぶんと冷や飯を食わされてきたということです。「信濃の国」の成立については前に書きました。
 さて、時代は約60年前にさかのぼります。昭和23年3月19日、県会本会議の開会をつげるベルが県会議事堂に鳴り響きました。明治以来繰り返されてきた分県、移庁論議がここにきて再燃し、分県論を審議するための本会議です。そのベルが鳴りやむか鳴りやまないうちに、傍聴席の片隅から静かな歌声が湧き起こってきました。「信濃の国は十州に境連ぬる国にしてノノ」県民誰もが知っている「信濃の国」の歌です。歌声は次々と傍聴者の間を伝わり、ついには議場に響き渡る大合唱となったのです。
 結局この日の審議は時間切れで散会となり、4月1日に採決に持ち込まれました。有名な松橋議長の欠席によるコロンブス作戦が効を奏して、分県案に賛成二十九票、反対二十六票、白票三票、欠席一でいずれも過半数を取れず、流れてしまいました。
 「信濃の国」の大合唱が直接分県の危機を救ったわけではなかったのですが、議場にいた南信側の議員たちは、戦意をくじかれたことを後になって認めています。
 今のこどもたちは「信濃の国」を歌うのでしょうか。少なくとも私どもの年代はよく覚えています。たぶん小学校で教わったものがいまだに記憶として残っているのでしょう。
 先ほどの最近県民になった方の話ですが、「信濃の国を歌う会」というのがあるのだそうです。一度行ってみたい気もしますが、想像するにその光景はちょっと怖いですね。

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