真田幸隆と山本勘助

南宜堂

2009年06月10日 00:38

 元禄時代に成立したとされる「真田三代記」には、真田幸隆と山本勘助が懇意であり、ともに武田の軍師として協力し合ったことが描かれている。
 山本勘助は実在についてはむかしから論議がされているところである。「甲陽軍艦」では縦横の活躍をしたとされる勘助だが、「甲陽軍艦」自体が歴史資料としては信頼性がなく、その辺が勘助を想像上の人物とされる所以なのだろう。
 しかし、最近の研究では、信玄の書状にその名が記されていることから実在の人物とされているようである。
 「真田三代記」の山本勘助の記述は明らかに「甲陽軍艦」を下敷きとしたものである。勘助は諸国修行の旅の途中信州真田の城下を通りかかった。城主幸隆の評判を聞いて会ってみたくなった勘助は案内を請うた。家来たちは貧相な異形な男を怪しんだが、幸隆は勘助の噂を知っていて丁重に扱うよう命じた。こうして勘助は真田の屋敷に10日ほど滞在して幸隆と兵法を語ったのだという。
 このような伏線があって、後年信玄に仕えた勘助は幸隆を軍師に推挙した。まさに「見てきたような嘘」なのかもしれない。しかし、勘助の仲介があったかどうかは別として、真田幸隆が信濃先方衆として武田信玄に仕えるようになったことは確かなことである。
 「真田三代記」では、信玄が真田幸隆を軍師として遇したことが書かれているが、私はむしろ真田の軍事力や知恵を信玄が重んじたというより、真田の「情報力と技術力」を利用したかったのではないかと思っている。

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