続 でもくらちいを考える

南宜堂

2010年06月01日 19:00

 慶応3年10月、徳川慶喜が大政奉還をした時点で、いわゆる「でもくらちい」について真剣に考えていたものがはたしていたのだろうか。
 横井小楠の影響を受けた坂本龍馬が、後藤象二郎に話したという「船中八策」、そこには、
「一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。」
という項目がある。この「上下議政局」は今でいうところの議会と考えてもいいだろう。その構成は、上院は大名、下院は藩士クラスの代表が構成員であり、農工商の身分のものたちはここには入っていない。
 おそらく、このあたりが当時の「でもくらちい」のもっとも進んだ姿ではなかったか。
 大政奉還を行った慶喜はどうなのかというと、この龍馬の構想したような政体を考えていたのではなかった。慶喜の場合、大政奉還は乗ってみせただけのものであり、本心は幕権をより強力にする手段として考えていたようである。この後招集される大名会議(上院)において慶喜が盟主として推挙されれば、より強い権力を掌握できる。すなわち、徳川絶対主義的なものを指向していたのだ。
 一方、薩摩や長州の場合はどうなのか。彼らの狙いはあくまでも武力倒幕である。倒幕の後の政権についての構想があったようにも見えない。強いていえば天皇中心の絶対主義国家が何人かの指導者の頭にあったのかもしれないが、「万機公論」の具体的な政策はなかった。
 どうもあのとき、まがりなりにも機会主義的なものを指向していたのは土佐や越前、そして幕府の中に少数いた「公議政体派」とよばれる人々であったようだ。
 しかし、彼らの存在は王政復古のクーデターにより、薩長の武力倒幕派に吸収されていき、急速にその基盤を失っていく。
 そして置き去りにされた農工商の「でもくらちい」が目覚めるのは、西南戦争後の自由民権運動まで待たなくてはいけなかった。