説経節の担い手
説経節を担ったのはどんな人たちなのでしょうか。
仏教の経典や教義を広めていく時、原典をそのまま読み上げてみてもなかなか民衆の間には伝わっていきませんが、たとえ話や因果応報の因縁話に仕立てることで、聴衆は興味深く耳を傾けるものです。
諸国を廻って民衆の間に仏教を広めてあるいたのは、廻国聖、山伏、絵解法師、熊野比丘尼といった下級の宗教者たちだといわれています。説経節のようによりくだけた娯楽性の強いものになりますと、それを語ったのは宗教者ではありませんでした。荒木繁氏は説経節を語った人々を次のように規定しています。「説経節は元来物もらいのための芸、乞食芸であったのである。」(東洋文庫「説経節」解説)
私どもの子どもの頃も「物もらい」とか「乞食」といわれた人々はおりました。しかし、本来乞食とはただわけもなく物を乞い、もらって歩く人々ではなく宗教的な修行の一環として人の施しを受けるものであったり、何らかの芸を演じて、その代償としていくばくかの物や金をいただくというもので、決してさげすまれるようなことではなかったのです。しかし、当時の社会ではさげすまれていたようです。
日本の芸能というのは、そんな社会的にはさげすまれてきた人々によって担われ、洗練され発展してきたという歴史があります。説経節のように長い年月の間に歴史の中に埋もれてしまった芸もありますが、歌舞伎、能あるいは落語といった伝統芸能とよばれるようになった芸能もあります。
説経は、近世の初期には「さんせう太夫」「かるかや」「小栗判官」「信徳丸」「愛護若」といった深い物語性をもったものに大成していくわけですが、この芸は一人の天才によって完成したものではなく、無名の説教師たちの切磋琢磨と聴衆の情念を作品に反映していくということの積み重ねによりなったものでしょう。