2013年12月03日

実録真田幸村

 「真田三代記」が伝えるところによると、九度山に蟄居中の幸村を召し出すことを進言したのは木村重成であるという。木村重成は、母の宮内卿局が秀頼の乳母であったことから幼児より秀頼に親しみ、元服後は側近となり、発言力も強まった。また、その木村重成に幸村の存在を教えたのは片桐且元であったという。父昌幸とともに上田城において徳川勢を悩ませたことが評判になっていたのである。

 木村重成は明石掃部介を使者として九度山に遣わした。掃部介は宇喜多秀家の重臣で、関ヶ原の戦いで敗れた後は浪人となっていたが、豊臣方の召しに応じて入城していた。幸村は掃部介が持参した金子で仕度を整え、堂々と隊伍を組んで入城したある。

 十四日、大坂城に入った幸村には兵六千人が与えられた。真田兵は真っ赤な鎧甲冑に幟、指物まて赤一色で「真田の赤備え」とよばれて徳川方から恐れられた。

 大坂城における幸村の地位、またその発言力についてはさまざまな説がある。幸村を主人公とする軍記物では「参謀」のような地位であったというし、小林計一郎氏などは「傭兵隊長」にすぎなかったのではないかとしている。

 長野県の郷土史界の泰斗故小林計一郎先生はその著書「真田幸村」(昭和五十四年・新人物往来社)の中で、大坂の陣における幸村について「大坂城における幸村は傭兵隊長にすぎなかった。」と断じている。傭兵つまり金で雇われた兵隊の隊長であったというのだ。こういう言い方をされると世の幸村ファンは穏やかではないだろうと思う。

 私は生前の小林先生について、本を出版させていただいたり講演をお願いしたことがあったりして、その人となりは多少は知っている。いたって温厚な激することなど考えられないような方であった。一方で、それまで固いイメージてあった郷土史を親しみやすいものにされた方でもあった。

 長野郷土史研究会を主宰され、ひんぱんに史跡めぐりや古文書講座をやられていた。その小林先生がこういう挑戦的な言い切りをされたということは、世間にはびこる通説を改めたいという思いがあったことだろう。

 傭兵隊長云々の前後も見てみよう。「幸村はなんのために死んだのだろうか。ふつう、故太閤の恩に報ずるためとか、秀頼への忠義のためだとかいわれる。しかし、これは江戸時代的な考えで、幸村は豊臣家とさほど深い関係はなかった。」「最後の戦いに子大助を秀頼のもとに送ったのは、人質の意味であった。豊臣氏にとっては、幸村は人質を取らねば信用できぬ程度の新参にすぎなかったのである。」大助が人質だったとは、せっかくの親子の美談が壊されると感ずる人もいるのではないか。

 かっこいい幸村の原型は何度も述べているように「真田三代記」である。それが講談となり、立川文庫となり、戦後にはあまたの映画・小説・テレビドラマとなり、ついにはゲームとなってその英雄像は膨らんできた。そんな英雄幸村は虚像であり、その実像を追うというのは、膨らんだ風船に針を刺すような行為にも見える。しかし、歴史家の矜持として事実は事実として示しておかなければならないと思われたのであろう。

 確かに豊臣家譜代の家臣からすれば外様、金で雇われた者たちという見方もあったであろうが、入城した浪人たちの中では、毛利・長宗我部と並んで元大名である真田昌幸の二男である。それなりの地位を与えられていたと思われる。

 だが、作戦会議においては幸村の策は容れられなかった。あくまでも先制攻撃を主張する幸村に、重臣たちは籠城する作戦を決めた。

 幸村の立てた作戦というのは、勢多(大津市瀬田)と宇治(宇治市)にまで出庭って押し寄せる徳川方を防ぎ、この間に流言を放って後方をかく乱し、渡って来る敵に戦いを仕掛ければ相当の損害を与えることができるというものであった。

 この作戦が入れられないと知った幸村は、大坂城の南方に「真田丸」という砦を築き、ここで徳川方の攻撃を防ぐ作戦に出た。真田丸のまわりに空堀や柵を築き、ここに突進する敵に弓や鉄砲で攻撃しようというのだ。作戦は見事に成功し、ほかの砦が破られる中、真田丸だけは敵を一歩も近づけさせなかった。



Posted by 南宜堂 at 14:43│Comments(0)

 
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