2014年03月12日

「信濃の国」考 3


 その後、病気で休職した依田弁之助に代わって音楽教師として北村季晴が青森から赴任して来る。彼は東京生まれの東京育ち、明治学院から東京音楽学校に進んだという新しい時代の青年であった。
 そんな彼に運動会に行う遊戯の作曲が依頼されたのだ。この作曲に彼はずいぶん苦しんだようである。浅井の詞「信濃の国」を選んだのは、詞として格調高く優れているということもあっただろうが、長野県内の名所旧跡をあまねく詞の中に歌い込んでいるということも北村が選んだ理由ではないかと思う。
 師範学校の生徒は県内各地から来ている。教師もまた同様である。この詞が好まれないはずはないと北村は思ったことだろう。
 さらにこの曲調である。女子の遊戯といえば「美しき天然」といった優雅なメロディーのものが選ばれると思いきや、意表をついて「信濃の国」だ。運動会の観客に新鮮な衝撃を与えたことは間違いない。
 北村自身の言葉ではないが、浅井が北村から聞いた話として、先の回想の中で次のように述べている。
「北村君は作曲した後で依田君の作った譜のあることを聞いて、それがあるならば別に作るのではなかったが、知らぬ故に女生徒の請うままに運動会の前に急遽作曲せり、蓋し依田君の譜は高尚にして宜しけれども習ってよく練習せねば誰でもまねることは難しいが、我が作曲は卑近平凡にして誰にもまねがしやすいから広く一般に歌うには我が作曲の方が歌われるならん。但し第四戴は練習を要する云々と語りたり。果たして作曲の難易に関せしにや。」
 最後の一言が意味深である。北村は謙遜してああいっているが、結構自信をもって作曲したのだということが浅井にはわかっていたのだろう。
 その後の「信濃の国」は師範学校の校歌となり、卒業生によって県内各地のこどもたちに伝えられていったことはご存じの通りだ。しかし、あの運動会の日の最初の衝撃がなければ、こうまで長く歌い継がれる曲とはならなかったかもしれない。
 



Posted by 南宜堂 at 21:00│Comments(0)

 
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