2007年04月12日

中央通りに市電を走らせる


 川上今朝太郎は長野市の生まれです。太平洋戦争中は信濃毎日新聞の記者をつとめていました。「昭和で最も暗かった九年間」「銃後の街」の写真集があります。
 彼の視点は戦争の重圧と庶民の暮らしを対比して写している点で、戦争の愚劣さをはっきり意識していたという点では当時としてはめずらしく冷めていた人であったと思います。
 街を記録するという意味では昨日の写真集も川上今朝太郎の写真も今となってはひじょうに貴重なものです。現在このブログでも多くの街のルポが掲載されておりますが、これが将来は貴重な資料となるのかもしれません。しかし、ブログという形では残るのかどうか何かあやふやなものがあります。先日もヤフーのメールが大量に消失してしまったという事故がありました。アナログであっても写真集という形で残されたものは図書館に行けば手にとって見ることができるわけです。

 さて唐突に話は変わります。
 路面電車が走る街は全国でもごくわずかになってしまいました。長野県下では昭和三十九年まで松本駅から浅間温泉まで路面電車が運行されていました。高度成長の時代になると、路面電車は遅い、交通の邪魔ということで次々に撤去されていきました。
 今百円バスというのが全国の都市で運行されています。長野でもぐるりん号という名称のバスが走っています。あのバスを見ていていつも思うのは、これは路面電車と同じ発想の運行ではないかということです。
・駅を中心として循環方式で運行されていること
・どこまで乗っても運賃は均一であるということ
 わたしはまだ市電が健在であった頃の京都に何年か住んでこの乗り物には大いにお世話になったのですが、運賃は均一で二十五円でした。京都駅から乗って、どこにも降りずに乗り続けていればまた駅に戻ってくる。それが市電でした。
 邪魔にされ撤去されてしまった路面電車ですが、あれこそが現代にあった交通機関ではなかったかと、思ってみるのですが後の祭りということでしょう。
 実は長野市の中央通りに電車を走らせる計画があったのですがご存じでしょうか。
 中央通りの拡幅工事がたけなわの頃、松本の筑摩鉄道が中央通りに電車を走らせる申請を長野県にしてきたことがありました。大正十二年十二月のことです。筑摩鉄道はかねてから、松本・長野間の犀川沿いに鉄道を走らせる計画を持っており、その一環として長野市の中央通りに市街電車を走らせようとしたものでした。
 これに対して、地元の長野電気鉄道も負けじと同様の申請を出したのです。これは長野電気鉄道の善光寺環状鉄道の一環としての申請でした。善光寺環状鉄道構想は遠大で、中央通りに軌道を敷き、それを丹波島・川中島・篠ノ井・稲荷山・八幡・上山田温泉・戸倉・屋代と結んで河東鉄道に接続するというものでした。
 中央通りに市電を走らせる計画は、もう一本長野市が申請したものがありました。三者が競合したこの問題は県知事までが斡旋に乗り出すことになったものの話し合いはつかなかったのです。
 現在のように自家用車や貨物トラックでの輸送が普及していなかった当時としては、鉄道は将来性のある産業だったようです。しかしこの計画は、筑摩鉄道のスト、昭和恐慌の影響で結局は沙汰止みとなって、そのまましぼんでしまいました。中央通りに市電が走っていたら、今の町の様子も少しは変わっていたのではないだろうか思います。結局幻に終わった中央通りの市電計画でしたが、関係者の間では真剣に論議されていたのです。



Posted by 南宜堂 at 23:44│Comments(0)

 
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