2008年05月07日

今週の信州

star5日 昭和22年(1947)諏訪中洲小学校に「信州風樹文庫」が発足する。
①信州風樹文庫は、岩波書店から出版される
  昭和22年以降の全図書を所蔵する日本では唯一の
  専門図書館です。
②信州風樹文庫の設立
戦後の混乱期の昭和22年5月、地元中洲村の青年たちが良書に接し勉強したいという熱意に応えて、岩波書店が全出版物の寄贈を約束、最初の201冊の寄贈を受けた時から文庫の歴史が始まります。
③信州風樹文庫 名称の由来
岩波書店の創立者(故)岩波茂雄先生の座右の銘「風樹の歎」に拠って命名されています。
樹欲静而風不止(樹静かならんと欲すれども風止まず)
子欲養而親不待也(子養わんと欲すれども親待たざるなり)
往而不可得見者親也(往きて見るを得べからざるは親なり)
                     (中国。韓詩外伝、巻九)
npo02 6日 明治6年(1873)開智学校開校式が行われる。
開智学校は、明治6年5月6日、筑摩県学を改め学制による小学校として、廃仏毀釈で廃寺となった全久院の建物を仮の校舎として開校しました。
新校舎は明治9年4月に全久院跡地に竣工し、昭和38年3月まで約90年間使用された、わが国で最も古い小学校のひとつです。
《校名の由来》
当時各地に創設された学校は、時代にふさわしい何か意味のある言葉をもって名づけたものが多かったようです。
「開智」の校名は、明治5年8月学制発布の前日に公布された「被仰出書」の文中にある「〜人々自ヲ・・・・其身ヲ修メ智ヲ開キ才芸ヲ〜云々」から命名されたといわれています。
《開智学校の建築モデル》
建築様式は東京大学の前身である開成学校などを参考にしたもので、和洋混交の擬洋風建築です。
《学校建築の立役者》
校舎の建築には、学事を施政の中心にすえ文明開化政策を強力にすすめた当時の筑摩県権令永山盛輝の命を受け、地元の大工棟粱立石清重が設計施工したもので、現存校舎のほかに30余室の教室棟が設けられており「広大華麗・地方無比」とうたわれた大規模校でした。
《学校工事費》
工事費は、当時のお金で1万1千余円の巨額なもので、そのおよそ7割を松本町全住民の寄付により調達し、残り3割は特殊寄付金及び廃寺をとりこわした古材売払金などで調達しました。
《新時代の授業風景》
開智学校押絵雛は、開校当時の授業の様子を表現しています。羽織・袴に靴をはいた先生が洋算を教え、子どもたちは腰かけに座り授業を受。
《授業の内容》
創設当時の多くの学校では、明治5年8月に布達された教則どおりの授業は実施困難で、寺子屋風の域をそう出ることはできなかったが、開智学校では教則に準拠しつつ、読本課・算術課・習字課を設け、英字課をも置いていました。
英字課は、県下では開智学校だけで、将来中学校の創設を考えていたようです。
face017日 慶長20年(1615) 大坂冬の陣で真田信繁(幸村)戦死。
icon2510日 明治36年(1903) 皇太子(大正天皇)結婚記念として城山公園(蔵春閣の東側)できる。
明治41年(1908)県庁舎全焼。26日松本で市民大会が開かれ、県庁移庁を決議する。
昭和39年(1964)蓼科有料道路開通。
icon0111日 寿永2年(1183)木曽義仲、倶利伽羅谷で平維盛の軍を大破する。
明治31年(1898) 長野電灯の茂菅発電所が完成し、長野市内に点灯。



Posted by 南宜堂 at 08:35│Comments(0)

 
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