2008年05月08日

オリンピックと世界遺産と

 今月の10日に善光寺を世界遺産に登録しようとすすめている人たちの集まりがあるということで、ちょっと興味があったのですが当日はあいにく所用があって聞きにいくことはできません。なに、老人の所用というのはたいしたことではないのですが、それでも前からの約束はキャンセルすることもできません。
 何が聞きたかったかというと世界遺産になると何かいいことがあるのかということなのです。長野市の指導的な立場にある多くの人たちが熱心に取り組んでいる活動ですからきっといいことがあるのだろうということを聞いてみたかったというわけなのです。上の方の人たちが熱心に活動しているという点では先のオリンピックの招致運動とよく似ています。ヒョタンから駒で、オリンピックが来たことで新幹線も高速道路もそしてオリンピック特需というのもついてきたわけですから、そんなことがまたあるのかと思ってしまうわけなのですが、今回はそういうことはなさそうです。
 北山時郎先生はその意義を次のように書いておられます。ユネスコの精神が世界平和の実現であるので、世界遺産への登録は民族固有の文化を理解しあうことなのですが、それでは抽象的でわかりにくい、もっと具体的に考えるならば、「私はこれを、善光寺を中心とした佛都長野の固有の歴史、文化、景観を正しく美しく後世に伝え残すために行う、私達自身のためのまちづくりにあると考える。」
 さらに「私は善光寺周辺が今のような状態のままで世界遺産に登録されたとして、どれだけの価値があるか極めて疑問に思う。それが出来たとして、それはあり得ないことだが、世界的にもっと有名になり今以上に観光客が集まり境内は賑わうだろうが、駐車場が足らなくなり、土産物屋が増え、境内の松林は枯れていくだろう。」とまことに辛辣なことも述べておられます。
 私が世界遺産への登録ということに疑問を持ったのも実はこのことで、現に白川郷などは、世界遺産に登録されたことで住民は不便を強いられ不満が高まっているという報告を読んだからでした。
 オリンピックの時のように、オリンピックが来れば長野は有名になり経済的には潤い、生活は便利になるなどという楽観主義はもう許されないということなのでしょう。こういう冷めた考えの方が世界遺産登録を目指す人たちの中にいることは頼もしく思います。しかし、運動が広がるためにはどうしても「世界的にもっと有名になり今以上に観光客が集まり境内は賑わう」というお題目も必要なんだろうなとも思います。というのは、北山先生のいわれるような目的を皆が自覚するならば、世界遺産への登録なんて必要ない。長野らしい町づくりを目指せばそれでいいことなのではないかと単純に考えてしまいます。



Posted by 南宜堂 at 23:52│Comments(0)

 
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