2008年06月12日

相楽総三と石坂周造

 清河八郎らと討幕運動に奔走し、明治維新後は長野市石堂で石油精製事業を行った石坂周造については前に書きました。石坂は討幕のために尽くしながらも、肝心の戊辰戦争のときに獄中にいたという不運のために仕官の機会を失い、士族の商法で石油事業をはじめ、一時は成功をおさめるのですが、持ち前の強引さで事業を広げようとして失敗し、晩年は事業から手を引くことになるのです。この石坂の生涯を考えるとき、二重写しのように私の脳裏に浮かぶのが赤報隊隊長相楽総三です。
 相楽は下総の郷士の子として生まれました。若くして討幕運動に加わったのは石坂と同じです。やがて彼は薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛の知遇を得ます。相楽が倒幕のために江戸で行ったことは市中への放火、略奪といった強盗まがいの行為でした。これは西郷の作戦で、幕府方を挑発し戦争への名分を確保しようとしたのです。
 やがて戊辰戦争がはじまると、相楽は赤報隊を組織し、東山道先鋒として京から中山道を江戸に下ります。相楽が民衆を掌握するため掲げたスローガンは「年貢半減」でした。後にこれが問題となって相楽は命を落とすわけですが、これは勝手に相楽らが作り上げたものではなく、一時は官軍に認められた政策でした。しかし、その後官軍はこの政策を撤回し、それに従わない相楽ら赤報隊を偽官軍として追っ手を差し向けたのです。捕縛された相楽総三は、下諏訪で偽官軍として打ち首にあい、その生涯を終えます。
 幕末から明治維新にかけての時代というのは、日本が大転換を遂げた時であり、誰もが成り上がることのできるチャンスをもてた時でした。現に明治維新を成功させ、明治の元勲と成った人々は下級藩士の子弟がほとんどでした。また、不運にも賊軍となって敗れた佐幕派の新選組もやはり階級的には武士とはいえないような身分のものでした。倒幕のためのエネルギーとなったのは、そんな上昇志向があったことは否定できないと思います。
 相楽総三も郷士という武士の中では最下級に属する身分のものでした。彼の中に一旗揚げたいという野望があったことは否定できないと思います。年貢半減を掲げて中山道を進む彼の脳裏に、どんな未来へのビジョンが渦巻いていたのか探ってみたい気がします。



Posted by 南宜堂 at 23:48│Comments(0)

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。