2008年06月20日

相楽総三と下諏訪

 「瞼の母」「沓掛時次郎」といった股旅もので知られる長谷川伸(一八八四-一九六三)の作品に「相楽総三とその同志」という長編があります。これは小説というよりは多くの資料を渉猟したドキュメンタリーとでもいった方がいいような作品であるのですが、その冒頭五十余ページ(中公文庫版)は、相楽総三の孫にあたる木村亀太郎がその半生を費やして祖父の「偽官軍」という汚名をそそぐための活動を追っています。亀太郎が大正元年十二月、初めて下諏訪の地を訪れたときの印象を、長谷川伸は次のように描写しています。
「……翌朝九時の松本行の汽車で、祖父の血で硬ばっている髷を見て以来、日も夜も、忘れずにいた信州下諏訪駅に着き、鏡のような諏訪湖からくる氷の風に吹かれつつ、停車場を出て驚いた。亀太郎が想像して来たのは高原の寒村だった。」しかし、下諏訪は高原の寒村どころか立派な街だったのです。
 諏訪地方と一口に言いますが、現代の行政区分でいえば、諏訪郡、諏訪市、茅野市、岡谷市のことであり、下諏訪は諏訪郡下諏訪町、岡谷市と諏訪市に挟まれた狭い町ではありますが、古来より諏訪大社下社の門前町であり、下諏訪温泉の町、中山道の宿場としても栄えてきました。
 話を幕末に戻します。相楽総三は総督府の命令に従わず、信州への進軍を決めたのですが、相楽にとって諏訪は懐かしい土地でした。文久年間、飯島村(現在の諏訪市四賀飯島)の岩波万右衛門方に滞在したことがあったのです。倒幕の同志を求める旅でした。
 また、伊那谷は幕末には国学が盛んで、赤報隊に共鳴するものが多いことも相楽には頼もしかったのだろうと思います。



Posted by 南宜堂 at 22:15│Comments(0)

 
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