2008年07月01日

相楽総三の処刑

 相楽総三は下諏訪に着いた翌日の2月8日、東山道軍総督府のある大垣に向けて旅立っています。総三の大垣行きの目的は、総督府の命令を無視して信濃に進軍したことの釈明でしたが、事態はそれほど楽観的なものではなかったのです。
 2月10日には信濃の各藩にに対し、次のような嚮導隊(赤報隊)の取り押え命令が出されています。

先達て綾小路殿の手勢に属していた者達が、綾小路殿が既に帰京した後も、無頼の徒を相い語り、官軍の名を偽り、嚮導隊などと唱え、虚喝をもって農商を脅かし、追々東下している。これら輩も高松殿人数と同様の儀として、それぞれ取り押え置くことを申す。
     二月十日   総督府執事 印

  堀左衛門尉殿(飯田藩)
  内藤若狭守殿(高遠藩)
  諏訪因幡守殿(高島藩)
  松平丹波守殿(松本藩)
  松平伊賀守殿(上田藩)
  真田信濃守殿(松代藩)
  堀内蔵頭殿 (須坂藩)
  牧野遠江守殿(小諸藩)
  内藤志摩守殿(岩村田藩)
       右御重職中

 総三が大垣の本営で大いに弁明に勤めたこともあってか、赤報隊の扱いについては薩摩藩に一任ということになりました。信頼する薩摩藩へのお預けとなって、総三は大いに安堵し、2月23日に下諏訪に戻ってます。
 2月27日、総三は下諏訪宿本陣亀屋を出て和田峠の麓の村樋橋に移りました。東山道軍総督岩倉具定に宿を明け渡すためです。その岩倉具定は3月1日下諏訪宿本陣亀屋に着いています。
 翌2日、東山軍総督府参謀から総三に御軍議があるので至急出頭せよとの命令が下りました。不穏な空気を察して、隊士たちは止めましたが、総三は供一人を連れて下諏訪本陣に向かいました。
 本陣に到着するや総三はただちに捕らえられ、部下全員の出頭を命ずる書状を書かされます。こうして赤報隊は全員捕縛されたのですが、この日諏訪地方は冷たい雨が降っていました。総三たちは諏訪大社の大木に縛り付けられ、雨の中ぐしょぬれになって夜を明かしました。
 3月3日、岩倉具定らは下諏訪を発ち佐久に向かいました。赤報隊(この時は嚮導隊と名を改めていた)の相楽総三ほか7名が、下諏訪宿のはずれにある刑場に曳かれたのはその日の夕刻、前日からの冷たい雨がしきりに降る中でした。処刑は打ち首、総三がいちばん最後に首を刎ねられました。刑場にさらされた八つの首級のかたわらには、次のような高札が立てられました。

右之者、御一新之時節ニ乗ジ、勅命ト偽リ官軍先鋒嚮導隊ト唱ヘ、総督府ヲ欺キ奉リ、勝手ニ進退致シ、剩ヘ諸藩ヘ応接ニ及ビ或ハ良民ヲ動シ、莫大之金ヲ貪リ種々悪業相働キ、其罪数ルニ遑アラズ、此儘打棄候テハ、弥ヨ以テ大変ヲ醸シツ、其勢ヒ制スベカラザルニ至ル、之ニ依テ誅戮梟首、道路遍ク諸民ニシラシムルモノ也。

 ここに書かれている赤報隊の罪状というのは、「勅命と偽り官軍先鋒」を名乗ったこと、諸藩や人民から莫大な金品を奪い、悪業をはたらいたことです。実際に彼らはここに書かれている通りであったのでしょうか。



Posted by 南宜堂 at 23:14│Comments(0)

 
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