2008年07月23日

錦町としまんりょ小路

 中央通りの石堂町と七瀬を結ぶ道が錦町通りですが、この道も新しい道で明治三六年の開通です。今では歩道もついて道幅も広くなりましたが、以前は未舗装の細い道でした。
 錦町通りが現在の長野大通りと交差するあたりに長野電鉄の錦町駅がありました。錦町駅は実に不思議な駅で、長野駅のホームが目と鼻の先に見えていました。これほどまでに近接した場所に駅ができたのは、地元の強い要望があったからでしょうか。開設は昭和三年六月のことです。
 錦町駅の踏切を越えると信越線の線路に行き当たるわけですが、線路は土手の上を走っていて、当初は踏切があって人や車は土手を上り下りして渡っていました。昭和三年には線路下をくぐるガードがつくられました。現在もほぼそのまま使われている七瀬ガードです。
 一方で、千歳町と錦町の交差点から西北に中央通りに斜めにのびている細い道があります。しまんりょ小路です。「しまんりょ」という名は意味がわかりにくいのですが、そのおこりはこの小路が中央通りとぶつかる角にある栽松院です。ここに天正年間から如意輪観音をまつるお堂がありました。ここが川の中州のような場所であったことから島の寮とよばれていました。この島の寮がなまって「しまんりょ」とよばれるようになったということです。境内にはいまでも嶋の天神とよばれるお堂があり、不動尊やお地蔵さんもまつられています。
 先ほど栽松院は川の中州にあるといいましたが、しまんりょ小路に沿って流れているのが社堰とよばれる灌漑用水、栽松院の北側を流れる川が南八幡川で、いずれも今では暗渠になって地下を流れています。
 古い地図を見ていて思うのは、長野はずいぶん川の多い町だったのだなということです。裾花川も江戸時代のはじめまでは、昭和通りのあたりを西から東に流れていたということですから、川の多いのもうなずける話です。
 川は今も流れています。わたしたちの目に見えないだけで、暗渠となって道路の下を流れているのです。町の生活に川は邪魔だったのでしょうが、今となってみれば町の中を小川が流れている風景は心がなごみます。
 いま試みに暗渠となった川の流れをたどってみると、いたるところでそれらの川が中央通りを横切っていることに気づきます。門前町に昔から言い伝えられてきた「七橋」の中にも、「地獄橋」「花合橋(蓬莱橋)」「鶴が橋」といった旧北国街道にあった橋の名が見えます。しまんりょ小路は、そんな小さな川の流れに沿ってできた道でもあるのです。

錦町としまんりょ小路



Posted by 南宜堂 at 00:27│Comments(0)

 
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