2013年07月10日

甲賀三郎

 中山道の宿場に望月宿があった。ここはまた望月の駒で有名なところで、平安時代にはここで産した馬が朝廷に献上されていた。その貢馬を牽く儀式が8月15日に行われたことからこの日に駒牽される馬を「望月の駒」と呼んでいたというのだが、これがいつの間にかその土地と結びついて生まれたのが「望月」という地名であったようだ。
 その望月の豪族望月氏であるが、近隣の海野・禰津氏とともに「滋野三家」と呼ばれ、天皇につながる由緒正しい家柄を誇っていた。
 平将門の乱の折、望月氏から望月三郎兼家が出陣し、武功の恩賞として近江国甲賀郡を賜った。これが甲賀望月氏の祖であるという。甲賀は、望月の牧で産した馬を都に運ぶ途次、休養し調教を行っていた場所であり、もともと望月氏とは縁があったのである。
 甲賀望月氏のことを調べていて、ふと思ったのは「甲賀三郎」のことであった。同名の推理作家がいたが、この人のことではない。東信濃に古くから伝わる甲賀三郎の伝説のことである。
 信濃に伝わる甲賀三郎の伝説は次のようである。「むかし甲賀三郎というものがいた。三郎は美しい娘を妻として幸せに暮らしていたが、三郎の二人の兄はこれを妬み、三郎を立科山に誘い出し、深い谷底に落してしまった。これを知った三郎の妻は、夫の後を追って谷に飛び込んだ。三郎は真楽寺(御代田町にある) 近くの小沼の池で蛇となって生き返った。妻もやはり蛇となって生き返り、二人は手を携えて立科山を越え、諏訪に行って神となった。それが諏訪明神である。」
 同様の話が実は甲賀地方にもある。同じような内容の話で、偶然に重なったとは思えない。望月氏が甲賀に持ち込んだ話なのか、とすれば望月氏の権威付のために諏訪明神の力を借りたのではないかということが想像できる。
 ということで、この話は甲賀流忍者の活躍に続くのであるが。
ちなみに、甲賀は「こうか」と読むのが正しいそうですが、今では地元でも「甲賀」と言っているそうです。



Posted by 南宜堂 at 10:20│Comments(1)

この記事へのコメント

 今日偶然、この記事読ませていただきました。

 手前味噌で恐縮ですが、「小説家になろう」というサイトに「坂東の風」という小説を掲載しています。
「五 将門を殺した男」http://ncode.syosetu.com/n5810bl/5/「拾九 世に至る道」http://ncode.syosetu.com/n5810bl/19/「弐拾 甲賀三郎兼家」http://ncode.syosetu.com/n5810bl/20/で多少望月三郎兼家(甲賀三郎兼家)のことを書いています。ご感想、ご批評頂ければ幸いです。
Posted by 青木 航 at 2014年08月25日 22:10

 
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