2008年08月02日

県町通り

 明治になって新しくつくられた道路には○○町通りという名称が付けられています。一線路は末広町通り、三線路は千歳町通りというようにです。そしてそれがそのまま新しい町名となっています。明治一二年に北国街道の西側に平行して開かれた県町通りも、新たに開かれた道路であり、町でした。
 中央通りという呼称は、昭和に入ってから一般化したもののようで、それまでは中央道路とか単に大通りとかいっていたようです。その中央通りという呼び方は、長野のメインストリートであるという意味とともに、千歳町通りと県町通りという新しい二本の通りの中央にある通りという意味も込められていたのかもしれません。
 さて、県町通りですが、これはその名が示すように、現在の信州大学教育学部の地にあった長野県庁から南に延びる通りとして開発されたものでした。現在でも県町通り沿いには、市立図書館、信濃教育会、日本赤十字社、かつて長野赤十字病院であった農協ビルといったどちらかといえば官の色彩の強い建物が並んでいるのは、建設した時のいきさつがあるからなのかもしれません。
 一方で千歳町通りは、権堂や鶴賀への近道であるということもあって、飲食店や飲み屋が多く並ぶ通りとなりました。長野の町は中央通りを境に西に官庁街が発達し、東には歓楽街が発達しています。そういう意図をもって明治の都市計画がなされたとは思いませんが、当時の長野県庁のお役人の深層に、権堂から遠ざかるように県庁を置きたいという思いが働いたのかもしれません。
 このことをひじょうに明晰に分析した著書がありますので紹介しておきます。加藤政洋さんが書いた『花街』(朝日新聞社)です。ちなみに加藤氏は長野県のお生まれのようです。同書の中に次のような記述があります。
「善光寺の南北に延びる街路を都市の軸線として、そしてこの街路にちょうど十字架を描くように門前で直交する北国街道とに沿って市街地が形成されたことがわかる。」
 そして明治期に設置された主要な施設(県庁、師範学校、中学校、市役所、警察署、監獄署、県会議事院、赤十字病院長野支部)はいずれも北国街道の西側に設置されています。それでは道の東側はどうかというと、江戸時代からの花街権堂があり、さらにその東に明治一一年に設置された鶴賀新地が立地しています。もともと遊廓は権堂にあったのですが、「明治天皇の巡幸に先だって明治一一年に新設された」と加藤さんは述べています。はっきりとはいっておりませんが、この長野の都市計画は為政者の側からの意図的なものであったことを加藤さんは指摘しているようです。
 よく本音とたてまえということがいわれますが、たてまえを一番の規範としている官吏や教育者には、本音の世界である花街が近くにあることは都合が悪かったのでしょうか。もちろん彼らも花街には通ったのでしょう。中央通りはその二つの世界を分ける結界のような役目をしていたのかもしれません

県町通り



Posted by 南宜堂 at 22:28│Comments(0)

 
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