2008年08月05日

他山の石 つづき

 桐生悠々が信濃毎日を追われたのは、長野県の在郷軍人会による信濃毎日新聞の不買運動でした。いわゆる兵糧責めにあった形となった信濃毎日は、やむなく桐生の首を斬ったのです。
 言論や思想への弾圧は直接的ではなく、こんな形で民の声として盛り上げていけば大きな効果があるということの証です。戦争への道も上からの押しつけではなく、民衆の運動としてなされていくことの怖さというものを感じます。
 信濃毎日を退社した桐生悠々は名古屋に戻り、「他山の石」という個人雑誌を創刊、自らの信念をペンに託して発表します。しかし、時局はもう戦争への道をまっしぐら、桐生の言説など誰も見向きもしない状況でした。
 昭和16年9月、病に冒された桐生は「他山の石」の廃刊を決意します。その廃刊の辞に「時偶小生の痼疾咽喉カタル非常に悪化し流動物すら嚥下し能わざるように相成やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつつある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も唯小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候」と記し、9月10日に死去したのです。絶望と孤独の中の死といっていいでしょう。自らの言説が時の権力によって圧殺されるのはジャーナリストとして戦う意欲をわかせるものでも、自らが拠って立つ基盤である民衆によって袋だたきにあうのは耐えられなかったと思います。せめて、戦争後の世界に希望を託したかったのですが、それも病に冒された身には見果てぬ夢でしかなかったのです。



Posted by 南宜堂 at 09:43│Comments(0)

 
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