2008年08月10日

鶴見俊輔

 軽井沢夏期大学で信濃毎日の中馬清福さんと鶴見俊輔さんが対談したという記事を先日見かけました。「戦時期日本の精神史」(岩波現代文庫)という鶴見さんの著書を読み始めていた時のニュースでした。何十年か前、鶴見さんについてささやかな思い出があります。
 大学入試に失敗して、京都の小さな町工場で働いていた頃のことです。そのころ私は鶴見さんたちが運営していた「思想の科学」という雑誌を購読していました。その会合が京都市であると聞いて、出かけたことがありました。鶴見さんは同志社大学の教授だったと記憶しています。
 ベージュのジャンバーを着て、大学教授らしからぬ風采の方でした。その鶴見さんに、こんな議論は毎日汗水垂らして働いている中小企業の労働者には何の関係もない、青臭い学生の議論だと食ってかかったのです。鶴見さんはちょっと困ったような顔をされていました。
 そんな思い出のある1970年という年は、戦後の日本にとって分水嶺のような年ではなかったかと思います。マルキシズムに基づく学生運動は東大の安田講堂の陥落で衰えを見せるようになり、日本の高度成長は大阪で開かれた日本万国博覧会により頂点に達したという感がありました。三島由紀夫の自決もこの年のことでした。
 学生運動に代わって盛んになってきたのがいわゆる市民運動というもので、鶴見さんや小田実のべ平連運動はその代表的なものでした。
 先の本の中で鶴見さんは「転向」のことを冒頭に取り上げています。戦前の転向は共産主義や社会主義からの転向のことで、政治的な圧力への屈服としてとらえられてきたが、その本質はむしろ自発的な転向ではなかったか鶴見さんは言います。
 警察の取調官向きに転向に導くための手引き書というのがあったのだそうです。そこには転向は決して投獄と拷問によってもたらされるものではないと書かれているそうです。逮捕者には親子丼を取ってやり、君のお母さんが心配しているよとかたくなな逮捕者もそのイデオロギーが解けていって転向に導かれるのだといいます。親子どんぶりというのは親と子の関係を連想させるので有効で、カツ丼ではいけないようです。
「転向に対するもう一つの条件となったのは、日本の人民大衆が満州事変を熱狂をもって迎えたことです。彼ら(転向舎)の身をすりへらしての献身の対象であった人民が、彼ら自身の信念にまったく反対の目標を支持していたのです。そのときに彼らの感ずる人民からの孤立の感情、隣近所の人々と彼ら自身の家族からの孤立の感情は、彼らに転向を決意させました。」と鶴見さんは当時の転向の実態を分析しています。



Posted by 南宜堂 at 10:39│Comments(2)

この記事へのコメント

そうだ、あなたは「思想の科学」を購読していたよね。思い出した。ジャズ喫茶でカレーも食べたよね。
Posted by フナ at 2008年08月15日 22:49
フナさま
ご無沙汰です。
あの頃は食うや食わずの日々で、コーヒーよりカレーでした。仲間の一人にバイト代が入る、みんなして食べるものをたかったものです。
今日のブログも京都ネタです。先祖がえりしているのでしょうか。
Posted by 南宜堂南宜堂 at 2008年08月16日 09:43

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。