2013年10月27日

長野駅の開業

 明治二一年(一八八八)五月一日、すでに開業していた直江津・関山間に続いて関山・長野間が開業しました。開業当時の初代長野駅は木造平屋建ての質素な駅だったようです。当時描かれた絵を見ると、隣りに建つ三階建ての旅館(五明館)の方がはるかに立派です。
 この駅は、駅長事務室と下等待合室だけの小さなもので、ホームも二面だけでした。このホームから直江津に向けて毎日朝六時と夕方四時三〇分に直通列車が発車しておりました。所要時間は三時間二五分、運賃は中等が一円一五銭、下等が六〇銭でした。現在の貨幣価値に直せば下等で直江津まで五千円以上かかったことになります。庶民には高嶺の花の鉄道であったようです。
 つくられた場所も、栗田村の田圃を埋め立てたといいますから、人家も無いところだったのでしょう。なぜそんな辺鄙な場所に駅がつくられたのでしょうか。善光寺から一八丁、一丁が一・一キロだから約二キロ、昔の人がいかに健脚だとはいっても、当時長野の中心であった大門町からは離れすぎているような気がします。一説には、阿弥陀如来の四十八誓願のうち、もっとも重要だといわれている第十八誓願「凡夫往生―いかなる者も念仏を唱えることで極楽往生できる」に由来するというのですが、この説はにわかには信じがたい話です。
 鉄道の建設というのは国家的な事業ですから、地域の思いがそれほど反映されるものではなく、もっとも工事のしやすい場所に効率を重視して建設するというのが原則であったはずです。多くの駅が、町の中心部から離れてつくられているのを見てもそれはわかります。ですから、信越線の場合も当時の幹線であった北国街道と交差する場所の近辺を選んで駅がつくられたのではないでしょうか。
 長野停車場開業の日には近郷近在から大勢の見物人が押しかけたといいますが、汽車を日常的に利用できるのは一部の人だけであったようです。鉄道の効用はむしろ、生糸をはじめとする物資の輸送にありました。
 明治二一年八月には長野・上田間が開業し、一二月には軽井沢までレールが延びました。そして明治二六年、軽井沢・横川間がアプト式鉄道で開業し、直江津・高崎間が全通しました。



Posted by 南宜堂 at 09:29│Comments(0)

 
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