2008年08月17日

ある特攻隊員のこと

 日本の戦争月間も8月15日を過ぎると急に失速していきます。もしこのブログ、続けて読んでいただいている方がおられたら、もうしばらくご辛抱下さい。南宜堂の戦争月間もいい加減で終わりにします。
 先日の信濃毎日に、浅間山に戦闘機で激突した特攻隊員がいたという記事が載っていました。このことはかつて井出孫六さんが小説に書いておられました。井出さんは当時中学生で、野沢中学の校庭でこの出来事を目撃していました。そして、何年か前の岩波講座で永六輔さんと対談した際、永さんもまたこのことを目撃していたというのです。永さんは小諸に疎開していました。
 終戦から何日か過ぎた日のことでした。井出さんは野沢中学の校庭で、近づいてくる戦闘機を目撃します。戦闘機は校舎の上を何回か旋回し、浅間山をめがけて飛んでいき、そのまま山の中腹に激突したのです。その同じシーンを永さんは小諸で目撃していました。搭乗していたのは野沢中学出身の特攻隊員でした。
 私は上原良治の死にもこの特攻隊員の死にも、どうしても釈然としないものを感じてしまいます。不自然な死だったと思います。わだつみの像は、若者の苦悩を表現したものだといいます。お国のためという大義と生きたいという思いのはざまで、若者たちは自分が死ぬ理由を何とか見つけようとしていたのだと思います。
 浅間山に激突した特攻隊員は、そんな苦悩して逝った仲間たちを見送って、死ぬことの出来なかった自分への自責の念からの自死なのでしょうか。それにしても、戦闘機で母校の上空を旋回し、白いマフラーをなびかせて浅間山に激突するという行動はよくわかりません。時に不愉快な思いがこみ上げてくるのはなぜなのでしょうか。



Posted by 南宜堂 at 20:45│Comments(0)

 
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