2008年08月21日

一宿一飯

 戦争というのは、国家が仕掛けた大きな「出入り」ではなかったかと、唐突にそんなことを思ってしまった次第です。というのも、佐藤忠男さんの「長谷川伸論」を読んでいたからなのかもしれません。「出入り」というのは一般的な言葉ではありませんが、いわゆるやくざの世界の抗争のことです。
 かつて日本には「一宿一飯」という相互扶助の習慣があって、これはいまではやくざ映画の影響によって、やくざの世界だけの出来事のように思われていますが、明治の頃までは日本の社会全体にあったものだと佐藤さんは述べています。それが近代化によって、古くさいものとして否定され、いつのまにか「一宿一飯」は国家に絡め取られていったのだといいます。「国家こそは、一宿一飯の掟を肯定しているのである。というより、国家が一宿一飯の掟を完全に独占することに成功したとき、地域社会や職能社会における独自の掟は封建的なものとして否定されるに至るのである。そして、思想的に否定されたとき、なおかつそこに残っているこの掟のイメージは、卑しいものとして、自らへり下ることを求められる。」
 具体的にいえば、徴兵など一宿一飯の最たるものでしょう。赤紙一枚で招集され、戦地に送られ、何の恨みもない人と国家のためということで戦うのです。
 長谷川伸の「沓掛時次郎」は草鞋を脱いだ博徒の家で「出入り」があるというので加勢にかけつけます。そこで何のゆかりもない者を「一宿一飯」の義理というだけの理由で殺してしまうのです。
 まさにアナクロニズム、股旅ものの世界だけでゆるされる荒唐無稽の出来事と私たちは考えてしまいますが、同じシチュエーションのことを国家の掟としてなされたならば、愛国的な事として賞賛されたりするのです。
 「一宿一飯」の掟を人々に強要する力を国家が完全に握ったとき、つまり、ただ法律的にそう強要するだけでなく、精神的にも、人々を納得ずくでそうすることに成功したとき、職人の世界などにまだ残っていた一宿一飯の仁義(あるいは辞儀)は、たんに古くさいだけでなく社会の進歩を阻害する反動思想として否定されなければならなくなる。」
 私たちは健康保険に加入し、年金に加入し、介護保険に加入し、不満はあるものの、老後もなんとか生きられる、これもお国の制度のおかげとありがたく思っています。そういう国家ですからもしもの時は守らなければならないだろうとも思っています。
 そんな制度のなかった江戸時代などはずいぶん大変だったろうとも思います。もっとも当時は人はそれほど長生きではなかったのですが、相互扶助の精神というのは地域社会や職能集団のなかであったのではなかったのか。それを人情といってしまってはこれも古くさい話になってしまいますが。そんな人情がなくなっても国家のおかげで生きられますと私たちは思わなければいけないのでしょう。
 先頃亡くなった母が、昔は長谷川伸の小説が好きだったと言っていたことがありました。読んだことのない私は「女だてらに股旅ものなぞ」と笑ったものですが、長谷川伸の作品のモチーフが親子の情愛、義理と人情であったと言われてみれば、遅ればせながら読んでみようかと思っている次第です。



Posted by 南宜堂 at 12:38│Comments(0)

 
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