2007年05月06日

長野はどこだ


 長野市は市制施行から今年で百十年になります。それ以前は長野町、明治維新の頃は長野村といっていました。
 「長野県百科事典」によれば、長野という地名が文献にはじめてあらわれるのは、元亀元年(一五七〇)のことで、武田信玄が立屋勘解由左衛門に宛てた朱印状に「長野之内 五貫文」とあるそうです。ということはそれ以前から長野の地名はあったということでしょう。その場所はといいますと近世初期の地図に西町の裏に長野町と書かれているそうですので、現在の長門町のあたりでしょうか。一説によると長門町は昔長野町であったのですが、長野村ができたことで長門町に改名したのだともいわれています。
 その長門町のあたりには長野天満宮という神社があります。何事にもルーツを見つけたがる私たちには、ここが長野の発祥の地と考えると考えると納得しやすいような気がします。
 正式には、慶長六年(一六〇一)徳川家康が四か村千石のうち、鐘鋳川以北の二百五十石を長野村としており、この名称が明治維新まで使われていたということです。長野村のうち善光寺宿を中心とする町場を特に善光寺町といっていたようです。
 この長野村の西方寺に県庁が移された時から長野は県名になり、これがそのまま尾を引いて現在にいたっているというわけです。このことがいろいろとややこしいことを引き起こし、県庁移庁、分県問題と県を二分してきたわけです。いっそのこと筑摩県と合併した時点で信濃県とか信州県に改めていれば問題は回避できたでしょうに、いつの時代でも国のやることは形式的でいけません。長野県の場合は、他県と違いその辺のことにはデリケートに対応してきたのです。大学は信州大学、県歌は信濃の国、新聞も信濃毎日です。なぜ県名だけが長野県なのか、長野市民としても迷惑な話です。



Posted by 南宜堂 at 23:26│Comments(0)

 
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