2007年05月09日

県庁の置かれた寺 西方寺

 浄土宗の古刹西方寺は、大門町の「門前農館」と市営駐車場の間の広小路を西に入った突き当たりに堂々たる伽藍を構えています。ここに長野県庁が置かれたことがありました。維新の混乱がおさまらない明治四年から七年までのことです。
 徳川幕府を倒した明治新政府は、全国各地にある徳川幕府の直轄領(天領)を治めていくために「県」を置きました。信州でも、「伊那県」が現在の飯島町に置かれました。しかし、南信の伊那県庁からでは、なかなか北信の方までは目配りができません。そこで、明治三年九月十七日、東北信を治めるために中野県ができて、県庁は中野陣屋に置かれました。
 できたばかりの中野県でしたが、中野騒動と呼ばれる農民らによる一揆のため焼き討ちに会ってしまいます。明治三年十二月十九日、一揆勢は中野の町に乱入し、豪商や質屋に放火しながら県庁に迫りました。この騒動で県庁は焼け落ち、役人が殺されてしまったのです。これが引き金となって、善光寺の門前町として賑わいをみせていた長野村に県庁が移されることになりました。長野村はもともとが松代藩領でしたが、この年の二月中野県に編入されたばかりでした。
 中野県では早くから長野村の中野県編入を強く望み、政府に訴えていました。その理由として、嘆願書は善光寺町は多くの人が集まり、窃盗犯や博徒が潜伏しており、厳重に取締をしなければならないからだといっています。実際のところは、その経済力に目をつけ、支配下に入れたかったからでしょう。
 中野騒動が原因かどうか、長野村など旧善光寺領四村は翌明治四年二月中野県に編入されました。同じ二月、立木兼善が中野県権知事(県知事)に任命されました。立木は三月十日中野に着任しましたが、ここに県庁を再建することはまったく念頭になかったようです。騒動の火種が燻り続けている中野は、立木にはなんとも物騒な地に思えたのでしょう。妻子は長野村に留めたままでした。
 立木が目論んだのは、県庁を長野村に移すことでした。当時の長野は善光寺の門前町として、また善光寺平の商業の中心地としてにぎわいをみせており、それにともなって犯罪も増えていました。
 着任早々の五月、立木権知事は上京して長野村への県庁移転の伺いを提出しています。それによると、中野は北国街道から五里も入った辺鄙な土地であること、この度の暴動で県庁は焼けてしまったこと、そんなことで諸事不便であること、長野村の善光寺町は多くの商人や旅行者が行き交い、北信第一ともいっていいほど繁華な町であること、そんな土地であるから盗賊や悪者もはびこっていること、それらの取締にも県庁を置くことは必要であること、などの理由から善光寺町に県庁を造営し、県名も長野県と改称したい、という内容のものでした。
 立木の伺いは聞き入れられて、県庁は長野村に移されました。県名も長野県と改められ、仮庁舎は、西方寺に置かれたのです。



Posted by 南宜堂 at 22:57│Comments(0)

 
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