2007年05月13日

長野電灯と中牛馬会社


 長野電灯の本社は、大門町の現在は市営駐車場になっている場所にありました。意匠を凝らした赤れんが造り二階建て、円形の塔をもつ洋館で、長野電灯が移転した後も医師会の建物として長く長野の人々に愛されました。今はもうその姿はなく、御影石の「長野電燈発祥の地」の碑が残るのみです。
 明治三十年五月十七日、長野電灯会社の創業総会が、城山館で開かれました。会長は小坂善之助、村山村(現在の長野市村山)の地主で、「信濃毎日新聞」の創業者でもありました。長野電灯は茂菅に六十キロワットの発電所を建設し、長野の町に電気を供給する計画でした。それから一年後の明治三十一年五月十一日の「信濃毎日新聞」に次のような記事が載っています。「長野電燈の開業、昨夜試点灯を行ひ今夕より開業。」この日の夜から長野に電灯がともるようになったのです。この時の電気料は、十燭光(約十ワット)電灯一灯が一ヵ月で七十銭でした。その後明治三十七年には大幅に値下げされ、十燭光が四十五銭になっています。
 長野の町に電灯がともったといっても、全部の家庭に普及していたわけではなく、開業から二年後の明治三十三年、普及率はようやく三分の一に達したところでした。そうはいっても、文明の利器である電灯は石油ランプに代わって家庭に普及し、長野電灯でも明治三十八年には芋井に新しい発電所を建設しています。
 さらに大門町には明治に設立された民間会社がもう一軒ありました。長野中牛馬会社です。こちらはまだ現存しており、楽茶れんが館というレストランとなっています。中牛馬会社とは要するに運輸会社のことで、長野中牛馬会社は郵便事業も行っておりました。中心となったのは以前紹介した中澤与左右衛門、信越鉄道を画策した一人でした。まだ鉄道の恩恵にあずかっていなかった高崎・長野間で主として生糸の輸送にあたったのです。しかし鉄道の開通により、顧客をうばわれじょじょに衰退していきました。




Posted by 南宜堂 at 10:22│Comments(0)

 
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