2008年10月19日

浅間三宿

あっしは旅人でござんす。一宿一飯の恩があるので、怨みもつらみもねえお前さんに敵対する、信州沓掛の時次郎というくだらねえ者でござんす。
とは、沓掛時次郎の仁義ですが、何の予備知識もなく信州沓掛を捜すのは大変です。今の沓掛は中軽井沢と変わり、沓掛宿の面影はなくなってしまっているからです。
 江戸時代は軽井沢・沓掛・追分を浅間三宿と称し、大勢の飯盛り女を置いて大いに賑わったものであるといいます。しかし、一方で「軽井沢、沓掛、追分の三宿は、浅間嶽の腰にて地形いよいよ高し。此三駅の間、南北半里ばかり、東西二、三里が程たいらかなる広野也。寒きこと甚だしくて五穀生ぜず。只稗、蕎麦のみ多し。又果物の樹もなし。民家にも植木なし。」(木曽路名所図会)というような土地でありました。結局、旅人相手の商売で食うしかなかった土地ということなのでしょう。
 浅間三宿の中でも沓掛は二つの宿場に比べてもうひとつ賑わいに欠けていたようです。長谷川伸がどんなきっかけで時次郎の出身地を沓掛にしたのかはわかりませんが、荒涼たる風景が時次郎の孤独を表しているような気がいたします。
 明治以降の軽井沢(追分、沓掛も含む)の発展はご存じの通りですが、そのきっかけとなったのは宣教師ショーの目に映った高原の冷涼な風景であったというのも皮肉な話です。
 明治になって鉄道が開通し、碓氷峠に汽笛が響くようになりますと、中山道の宿場として栄えていた軽井沢はすっかりさびれてしまいました。



Posted by 南宜堂 at 01:01│Comments(0)

 
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