2007年05月19日

一府十県連合共進会


 いま信濃美術館や東山魁夷館のある城山公園は、明治四十一年(一九〇八)、一府十県連合共進会の会場となったのを契機に整備され、公園となったものです。この共進会の開催は、長野が近代的な都市に発展するための起爆剤の役目を果たしたといわれていますが実際はどうだったのでしょうか。
 この時県は三万坪の土地を整地し、そこに演芸館や接待館などの恒久的な建物はじめ、いくつかの仮設小屋を造って共進会の会場としました。

 明治四十一年九月二十日午前十時、一府十県連合共進会が五十二日間の予定で開会しようとしていました。前日から降り続いていた土砂降りの雨が、午前八時を過ぎるとうそのようにやみ、秋の澄み切った青空が顔をのぞかせています。雨上がりのぬかるんだ道を、羽織袴やフロックコートに身を包んだ紳士たちが、足もとを気にしながら続々と城山公園に集まってきました。
 府県連合共進会は、東京府、神奈川、新潟、埼玉、群馬、千葉、茨城、栃木、山梨、愛知、長野の一府十県が持ち回りで毎年開催しているもので、長野県では明治三十九年に誘致を決め、二年余にわたって準備をすすめてきたものです。
 そもそも共進会とは、博覧会の規模を小さくしたようなもので、穀物や蚕種、牛や豚といった農産物や、織物、農機具、織機などの工業製品を持ち寄って行う品評会だと考えていただければわかりやすいでしょう。参加を決めた各府県の関係者は、農林館、工芸館、蚕糸館、特許館などに、それぞれ自慢の産物を並べ、客を呼びました。
 共進会の主催者である長野県の意気込みはたいへんなもので、数カ月も前から信濃毎日新聞は、毎日のように共進会関係の情報を流しました。しかし、記事の内容は演芸館で行われる余興の紹介であったり、会場の外に小屋がけする興業をおもしろおかしく書きたてるといった興味本位のもので、人々の関心もその辺に集中したようです。
 一方で信濃毎日新聞の記事は、本来の目的はそれぞれの出品者の功績を顕彰し、産業の発達を促そうということであるので、観覧者としても心して会場に足を運び、大いに知識を深めるべきであると、報道機関としての良識をもって釘を刺すことも忘れませんでした。



Posted by 南宜堂 at 00:08│Comments(0)

 
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