2008年10月27日

碓氷線

 ショウに軽井沢を紹介したのは鉄道技師のポウナルという人であったことは前に述べました。彼はボイル技師の下で中山道幹線鉄道の実地調査をしていて軽井沢を知ったのですが、この中山道幹線鉄道というのが日本の東西の都を結ぶ幹線鉄道として、明治初期には真剣に考えられていたのです。このことについてはだいぶ前にこの欄で書いたことがあります。
 結局は中山道幹線鉄道は実現しなかったわけですが、高崎・直江津間の信越線は建設することが決まりました。この時、橋梁の専門家として参加したのがポウナルでした。この橋に使われた煉瓦は約202万個で深谷、川口、長野で製造されたそうです。長野で製造された煉瓦といえば岡本煉瓦工場ではないかと思います。しかし、ものの本によりますとこの煉瓦は不良品で使い物にはならなかったとあります。
 碓氷峠にアプト式鉄道が開通したのは明治26年のことです。ショウらが初めて軽井沢を訪れたのが明治18年ですから、まだ鉄道など影も形もなく、彼らは歩いて峠越えをしたのです。しかしこのことは軽井沢にとって幸運だったのかもしれません。アプト式鉄道は旧信越線ですから、軽井沢の眺望は期待できなく、もしかしたら二人は軽井沢を素通りしていたのかもしれないからです。
 そんな風に明治の軽井沢のことを調べていると、とんだところであるものとあるものがつながったり、思いがけない人の名前が出てきたりと、なかなか興味はつきません。岡本煉瓦工場は明治の長野では有力な産業だったようで、現在は楽茶れんが館となっている長野中牛馬会社の煉瓦などはこの碓氷線で使った煉瓦の残りで建てたのだと聞いたことがありますが、もしかして鉄道では規格外で採用されなかった煉瓦をこの建物に使ったのではないかなどと不謹慎な想像をしてしまいます。
 そして碓氷峠と森鴎外と馬車鉄道という不思議な組み合わせの話もまた機会を見て書いてみたいと思います。



Posted by 南宜堂 at 23:57│Comments(2)

この記事へのコメント

あ!馬が歩いて帰っていたと以前教えていただいた東町駐車場かられんが館横の路地!れんが館のれんがの歴史ですね!
Posted by みうみうBETTY at 2008年10月30日 06:37
みうみうBETTYさま
 明治の長野には岡本煉瓦会社というのがあって、長野では大きな工場だったようです。社長の岡本孝平氏は実業家としてはなかなか力のある人だったようで、信濃毎日新聞の経営にも携わっています。この人のことはあまり知りません。機会があったら調べてみます。
 この会社で作った煉瓦が碓氷線の建設に使われていたようです。橋梁だけでなくトンネルや丸山変電所の建物にも煉瓦が使われています。
 岡本煉瓦は軽井沢にも工場をつくったようで、一時は煉瓦景気にわいたようです。しかし、本文にも書きましたようにここでつくられた煉瓦は鉄道工事に用いるには粗悪品だったようで、深谷で焼かれた煉瓦が主に使われたということです。
 長野の煉瓦造りの建物というのも調べてみると面白いかも知れません。盛んに造られたのはコンクリートが入る前ですから明治時代です。なかなか残っていないでしょうが、部分的には発見できるかもしれません。
Posted by 南宜堂 at 2008年10月30日 13:46

 
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