2007年05月21日

松井須磨子の長野公演


 大正四年年の長野公演は、須磨子が人気絶頂の時に行われたまさに凱旋公演でした。
 長野公演に先立って、六月二十八日に須磨子は単身長野を訪れています。ひいき筋への挨拶と、公演成功の根回しが来訪の主な目的だったといわれていますが、時間をさいて清野村に住む母親の許を訪れています。母親とどんな話をしたのでしょうか。昼食を共に食べるとあたふたと帰っていったといいます。
 当時の「信濃毎日新聞」にこの帰郷の様子とその後の後援会幹部との晩餐会の模様までが細かく報道されています。しかし、故郷に凱旋した大女優を迎えるには、その記事は少し冷たいように思います。例えば「一万円の貯金を有している須磨子が、僅かに十五銭を奮発してガタ馬車で帰る。其処に彼女の面目が躍如しているではあるまいか」とか、抱月とのスキャンダルを報じた新聞記事に「まアこんな事どうして新聞社の方には知れるのでせうと顔色一つ変もせず平気で言う度肝の太さ」といった具合です。島村抱月との不倫愛が世を騒がせていた時、良識を代表する新聞としては皮肉のひとつも言ってみたかったのでしょうか。
 女優松井須磨子にとっても、ふるさとはやはり、「遠きにありて思うもの」だったのでしょう。何ごとにも保守的な故郷の風土、しかしスキャンダルについては敏感で、人々は須磨子の成功を手放しで歓迎していたわけではなかったのです。
 今、地元では松井須磨子を町おこしにと、盛んに顕彰のための活動がおこなわれています。しかし、須磨子の何が偉大であったのかという論議がなかなか聞こえてきません。
 大正七年、島村抱月は流行中のスペイン風邪にかかり急死してしまいます。翌年一月五日、松井須磨子は抱月の後を追うように縊死をとげます。翌日の「信濃毎日新聞」は、八段抜きでそのニュースを伝えています。中でも「女性としては近代劇の第一人者」という中村吉蔵の談話を紹介した大きな見出しが印象的でした。



Posted by 南宜堂 at 22:49│Comments(0)

 
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