2008年11月21日

山椒は小粒でもピリリと辛い

 食堂に限らず、戦後日本の商売のさまざなシーンにおいて、競って負けたものは市場から退場していくという論理が働いているように思います。町の小さな商店とか、大衆食堂などは大手のスーパーや外食チェインが進出してくると客をそちらに奪われやめていくというかたちをとらざるを得なくなっています。かろうじて生き残ってもかつてのような勢いは期待できず、細々と商売を続けているのが現状ではないでしょうか。
 さきごろ、須坂駅前のジャスコの撤退が決まって、困惑する地元商店の声が新聞に載っておりました。情けないけれど、ジャスコの集客力頼みの商売であったのでしょう。一方で消費者から見たら、スーパーが近くに開店してくれたらいろいろ便利ではあるのですが、そのために小売店が廃業してしまい、今度はそのスーパーがなくなるといえば買い物が不便になる、誠に皮肉な話です。

 30年以上も前、私は京都の大衆食堂でほぼ1年間アルバイトをしたことがあります。そこの大将という人は別の食堂で修業をして独立した人で、それなりのこだわりをもっていて夏になるとはもの梅肉あえなんかを出したりしていました。
 徒弟奉公をして技術を身につけ独立したりのれん分けするということは京都だけではなく、ここ長野の町でも行われてきたことであると思います。本屋さんに西沢書店という屋号が多いのは、たまたま西沢姓の人が本屋さんに多いのではなく、長野市大門町の西沢書店で修業したした人が各地でのれん分けして開業したからです。西沢書店は遠く福島にもありますし、かつては宇都宮にもありました。長野の和菓子屋さんに心という字をつけた屋号が多いのは一心堂からのれん分けで独立した人が多いからだと聞きました。
 そういう形で受け継いできた技術のようなものは、大資本によってマニュアル化された大型小売店や外食チェインによってひとたまりもなく蹂躙され、そのチェインが撤退するとすでに技術は亡びていて、残るのは荒れ野原ばかり、いやシャッター通りばかりなのでしょう。
 そういう悲観的な話ばかりではなく、外食の攻勢をもろに受けながらも「ココット」のハンブルグステーキはがんばり、長野の和菓子屋さんもがんばっています。ただそういう個人的ながんばりだけではなかなか町の復活というのは難しいと思いますが。



Posted by 南宜堂 at 12:32│Comments(0)

 
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