2007年05月27日

番外 善白鉄道 2


 善白鉄道は最初から多難な船出でした。資金難で用地の買収が難航し、ようやく着工をみたのは昭和五年のことでした。昭和十一年十一月二十二日、待望の南長野・善光寺温泉東口間が開通しました。東口駅は、善光寺温泉駅が地滑りに見舞われたため臨時に設けられた駅で、翌月の二十六日善光寺温泉駅が完成すると、ここが終点となりました。
 線路は電車用に建設されていたが、経済効率を考えて、導入されたのはガソリンカーでした。残された写真を見ると、車両は一両ないしは二両編成で、裾花川に沿った山間をのどかに走っていました。南長野・善光寺温泉間を一日十往復、片道十七分という短い路線でした。運賃は片道十八銭でした。
 鉄道の開通でいちばん恩恵を受けたのは、善光寺温泉と茂菅鉱泉だったといいます。長野から手軽に行ける行楽地ができたということで、開通当初は満員盛況の日が続きました。しかし、この混雑は長続きしませんでした。いつしか通勤、通学時以外は閑散とした車輌が走るようになったのです。
 赤字続きの善白鉄道でしたが、当初の目標としていた北城までの工事は細々と続けられました。善光寺温泉駅開通から六年後、昭和十七年、裾花口までの一キロがようやく開通しました。その後一時乗客が多くなるのですが、それは皮肉にも太平洋戦争が激しさを増し、長野の軍需工場に通う人が増えたからでした。
 昭和十八年十二月十日、東京の鉄道省に呼び出された松本久森善白鉄道社長は、一枚の命令書を受け取りました。書かれていたのは「全区間の路線を撤去し、営業を休止せよ」というものでした。軍事体制下にあっては善白鉄道は不要不急線であるという烙印が押されたのです。
 昭和十九年一月十日、営業は休止し、レールははずされました。はずされたレールや鉄橋などは東南アジア方面の前線へ軍事資材として送られていきました。あっけない幕切れでした。
 やがて戦争は終わり、平和な時代になったのです。復活に備えてそのまま残されていた駅舎やホームの跡、トンネルや鉄橋の橋脚は最近まで原型をとどめ、戦後生まれの人たちにも、ここに鉄道が走っていたことを思い起こさせたものです。特に土手の上に作られた山王駅のホームは、市営プールと山王小学校の校庭を見渡せる場所にあり、土手が崩されるまで、在りし日の善白鉄道を偲ぶ散策の人の姿も見ることができました。しかし、ついにここに再びガソリンカーが走ることはなかったのです。



Posted by 南宜堂 at 23:39│Comments(2)

この記事へのコメント

善白鉄道がもしも今もあったら、便利だっただろうなあ。。と思ってしまいます。今も少し鉄道の跡があると聞いたのですが、
ロマンを感じます。
長野駅近く中御所に「善白鉄道運輸株式会社」??という会社の看板をいつも見かけるのですが、これは
善白鉄道関係の会社なのでしょうか。。??
Posted by みうみうBETTY at 2007年05月28日 01:24
みうみうBETTYさま
コメントありがとうございます。ほとんど読む人がいないとおもっていたブログですが、読んでいただける方がおられたのはうれしい限りです。
さて、長野は今年市制100年ですね。別に記念行事はないようです。100年の時はきっと大々的にお祝いがあったと思いますが、記憶にありません。年を取ると記憶が曖昧になりますね。
善白鉄道運輸は善白鉄道の後継の会社と思います。これも曖昧でもうしわけありません。善白鉄道は運行は昭和19年休止していますが、いずれ復活を期して会社は存続していました。復活は昭和40年代まで論議されていたようです。
Posted by 南宜堂 at 2007年05月29日 08:39

 
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