2007年05月29日

エピローグ つづき

 イベントが町を活気づかせるとか、ハコモノを造ることで町がにぎやかになるという発想からはそろそろ脱却した方がいいと思うのです。
 軽井沢は、一人のカナダ人宣教師ショーが、明治十八年にたまたま訪れたことから避暑地として発展してきました。小布施は地元の豪商高井鴻山が江戸の浮世絵師葛飾北斎を招いたことから、北斎の肉筆画が多数残される町となりました。長野は善光寺如来への信仰が多くの人を引きつけ、その門前町として発展してきた町です。
 善光寺をめぐる幾多の物語が語られ、聖たちによって日本中に広められました。それが今日の善光寺信仰を生み、多くの人々が訪れる町となったのです。町の魅力はいたる所に残る町の物語にこそあるのではないかと思います。

 先年私たちは、昭和二年に発行された長野の商店の写真集を『昭和のはじめ長野の町』という書名で復刊しました。この写真集は、大正十二年から十三年にかけて行われた中央通り拡幅工事の完成を記念して出版されたもので、この写真集からだけでも、大正から昭和初期の長野の町の物語をいくつか発見することができました。この時の工事で、長野に曳家の技術がはじめて導入されたこと、新築した商家は自分の家の商売に合わせたデザインを取り入れて建物を造ったこと、拡幅後の中央通りに市電を走らせる計画があったこと、街路樹や街灯が整えられ、都市の景観を考えた町づくりがおこなわれていたこと、そんなひとつひとつの物語は今の私たちにも興味深いものでした。
 そんなことがきっかけで、今回私たちは長野の町に物語を探して歩きました。残念なことに、そんな物語の舞台となった場所や建物が、長い年月の間に姿を変え、まったく当時をしのぶことができなくなってしまったものがずいぶんとありました。長野電灯会社の洋館、安田銀行長野支店の蔵づくりの建物、仏閣型の長野駅、善白鉄道の跡、丸光屋上の観覧車、旧丹波島橋などはもう写真でしかその姿を見ることができなくなってしまいました。村山橋も早晩姿を消す運命にあるようです。
 高度成長期に建てられたマンションの例を見てもわかるように、日本人の建築物に対する意識は百年二百年後を考えた造りをしてきませんでした。皮肉にも江戸末期や明治初期の木造の建物が今に残っています。大正の末、中央通りの拡幅に伴って、家を曳いてでも先祖の築いた家を守ろうとしたのは、決して欲得ずくではなかったろうと思います。
 家に宿る歴史や先祖の思いのようなものが壊すことを拒んだのではないかと思うのです。同じように町にも町をつくってきた無数の人々の無数の物語が至る所に潜んでいます。それはこれからの町づくりをする人々には豊饒な宝物となるにちがいありません。



Posted by 南宜堂 at 22:52│Comments(0)

 
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