2009年02月09日

■坂井衡平は善光寺の創建年代をどのように推定したか

 坂井衡平の『善光寺史』は現在でも善光寺研究の定本ともいうべき大著です。坂井は明治一九年伊那の生まれ。東京帝国大学国文学科を首席で卒業した英才でしたが、東大の助手時代に教授に疎まれ、学界に自らの席を占めることができませんでした。
 定職もないまま食うや食わずの学究生活を送っていた坂井に、長野市教育会が企画していた善光寺史の仕事を紹介したのは同郷で長野市教育会会長の林八十司でした。以来坂井の亡くなる昭和一一年まで研究は続けられたのです。長野市教育会から支給される月額三〇円という金額で坂井は生活し、研究を続けました。当時の三〇円といえば、小学校教員の初任給の半額であったといいますから、いかに薄給であったかということがわかります。しかし、長野市教育会としても会員の会費だけでまかなっていたということであれば仕方なかったのでしょう。
 結局『善光寺史』は未完のまま出版されることなく信濃教育会の教育参考室に保管されていました。戦後二十数年を経て、昭和四四年東京美術より二巻本として刊行されました。なぜ刊行できなかったのか。研究があまりにも実証的であったため善光寺に遠慮してとか、販売が見込めなかったからとかいろいろいわれていますが、研究の途中で死去したことといい坂井は最後まで不運な研究者でした。
 坂井は全国各地の善光寺を訪ね歩き、実に丹念に調査研究をすすめ、実証的に善光寺の研究を行いました。その坂井の説によると、善光寺の創建は二段階に分けて考えなければいけないとしています。
 第一段階は奈良時代の初め。この頃に善光寺如来が奈良でつくられました。そしてこの仏は都の大きな寺にまつられたのではないかと坂井は推測しています。
 第二段階はこの如来が地方の有力者の手によって信濃の国に運ばれ、それをまつるための寺が建立された時代です。この時代とはおよそ天平の末から勝宝の頃ではないかといいます。
 坂井がこのように考えたことの根拠はやはり、『扶桑略記』に引用された「善光寺縁起」でしょう。欽明天皇一三年(五五二)に百済から渡来した阿弥陀三尊が善光寺如来であるという段は、善光寺仏の形状から見て内地仏であるとして否定しています。しかし、奈良時代に信州には仏像をつくる技術を持った仏師がいたとは考えられないことから、善光寺如来が作られた場所は都であるとしました。その仏像が、信濃の有力な豪族の強い希望により、信濃に運ばれたものであろうと推測しています。
 制作年代について、縁起と坂井の説はだいぶ開きがありますが、信州における仏教の展開とか如来の姿から天平の末から勝宝の頃の作としたものではないでしょうか。
 ここで不思議に思うのは、なぜ坂井が秘仏である善光寺如来の様式を内地仏であると確信できたのかということです。彼は善光寺の創建年代の特定には善光寺如来を拝観し、その様式を知ることが重要であるとし、再三にわたって拝観を申し入れています。そのことは『善光寺史』にも書かれていますが、その願いはことごとく却下されました。坂井は全国の新善光寺を訪ね歩いているので、それらの寺の仏像から善光寺如来の様式と制作年代を類推したのかもしれないのですが、もしかしたら彼の熱意が如来に通じて拝観を許されたのかと、そんなことをふと考えてしまうのです。



Posted by 南宜堂 at 09:34│Comments(0)

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。