2009年02月10日

■「善光寺縁起」とはどのようなものか

 善光寺の歴史を繙いていくと、史実と伝説が混在していて、どこまでが史実であるのかどこからが伝説であるのかわからなくなってしまうことがあります。善光寺には、「善光寺縁起」という寺の歴史についての言い伝えがあり、先に紹介した『善光寺御開帳公式ハンドブック』はこれを善光寺創建の歴史としています。しかし、研究者の間では、縁起は想像の産物であり、実際の歴史とは違うのだということが前提になっているようです。
 にもかかわらず、善光寺史の本がどれもが決まったように「善光寺縁起」から説きはじめるのはなぜなのでしょうか。これについて坂井衡平は著書『善光寺史』の中で次のように述べています。「善光寺史に於いては特に縁起の勢力が著しく強く、又資料の欠乏に反して、此方面のものは非常に多種多様に行われている。」
 言い換えれば、善光寺に関する限り、今まで学問的に研究されるということはあまりなく、どちらかというと信仰の面ばかりで語られてきたということでしょう。おびただしい数の善光寺縁起とその類本が伝わっており、まさに伝説の世界では善光寺史は実に豊かな資料を有しているというわけです。
 現在文字として残っている縁起で最も古いものは先に記したように、『扶桑略記』と『伊呂波字類抄』に引用されているものです。いずれも平安時代のものと推定されています。
 江戸時代の博物学者塙保己一編の『続群書類従』には「善光寺縁起」が収録されています。いわゆる古縁起といわれているもので、ほぼ私たちが知っている縁起の形をとっています。記事の内容から応永年間(一三九四ー一四二八)に書かれたものではないかと推定され、「応永縁起」ともいわれています。坂井衡平は善光寺の寺僧の手になるものではないかと推定していますが、鎌倉から室町時代にかけて作り上げられてきた縁起をまとめたものであろうと考えられます。
 「善光寺縁起」は江戸時代になるとさらに洗練され、一般向きに書かれるようになり、善光寺まいりのみやげとして売られるようになりました。平安時代の書である『扶桑略記』に引用されている「善光寺縁起」の原型が、幾多の年月を経て完成されていくわけですが、この間に誰の手によってどんな風に変遷していったのかは想像するしかありません。坂井は善光寺の寺僧の手により書かれたと断定していますが、唱導文学といわれる「善光寺縁起」は寺院の奥深くで成立したものとは考えにくく、実際に巷に出て唱導に携わった僧侶らにより、脚色され語られたものであろうと考えた方が自然です。寺僧の手になるというのは、これらを整理記述した作業を指すのであり、またそれを台本として人々に語られながら完成していったものでしょう。
 このようにして成った「善光寺縁起」ですが、それでは実際に「善光寺縁起」を語り、新たな物語を創作して付け加えていったのは誰なのか。そのことを念頭に置いて縁起について考えてみたいと思います。



Posted by 南宜堂 at 09:26│Comments(0)

 
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