2009年02月11日

■「三国伝来の生き仏」とはどういうことか

 善光寺の本尊である善光寺如来について「三国伝来の生き仏」ということが言われています。「三国伝来」にしても「生き仏」であるということにしても善光寺縁起に記されていることで、昔からそのような伝承があったということなのです。三国というのは、天竺(インド)・百済(朝鮮)・日本のことで、如来の伝搬の経路を示しています。

 むかし、お釈迦さまが大林精舎で説教をしていた頃の天竺、今のインドでのこと。毘舎離国に月蓋長者というたいそうなお金持ちがいた。月蓋長者には一人の娘がいて、名を如是姫といった。五一歳のときにできたたった一人の子供で、長者は如是姫をずいぶんと可愛がった。月蓋長者は金持ちのくせにけちで信仰心が薄く、お釈迦さまが托鉢に来ても追い返してしまうような男だった。ある時、如是姫ははやりの疫病にかかり、医者もさじを投げるほどの容態になってしまう。あとはお釈迦さまにすがるほかはないと、長者は大林精舎に向かった。慈悲深いお釈迦さまは、それまでの長者の不信心を責めることなく、はるか西の方の極楽世界におられる阿弥陀如来を拝むようにと教える。屋敷に帰った長者は、西に向かい一心に阿弥陀如来の御名を唱えた。すると不思議なことに身の丈一尺五寸の阿弥陀仏が観世音と大勢至の二菩薩を従えてあらわれ、その光明が如是姫の枕元に届くや、あれほど苦しんでいたのが嘘にように元気になったのだ。喜んだ月蓋長者は、竜宮にある閻浮檀金という金で阿弥陀仏の姿を刻ませた。これが善光寺の本尊である善光寺如来であるといわれている。
 月蓋長者は、阿弥陀如来を深く信仰した功徳により、死後百済国の聖明王に生まれ変わった。阿弥陀如来は聖明王とともに長く百済にとどまった後、聖明王の夢枕に立ち、日本に行って衆生を救いたいと申された。百済の人々は、泣く泣く如来に別れを告げ、日本の欽明天皇のもとにお送りした。
 欽明天皇は群臣を集め、この異国の神をおまつりするべきか評議にかけた。物部御輿は、日本にはむかしから八百万の神々がおられるので、如来は百済にお返しするべきだと申し上げた。一方蘇我稲目は異国から送られた神はたいせつにすべきだと申し上げた。天皇はためしに稲目に如来を拝ませることにした。しかし、日本に悪い病が流行し、その原因が蘇我氏が異国の神を拝んだからだということを物部御輿は主張し、如来を壊そうとしたり焼こうとしたが、びくともしない。そこで、難波の堀江に沈めてしまった。

 善光寺如来は、竜宮にある閻浮檀金という金でつくられた阿弥陀仏の分身仏であるのです。この如来は天竺から百済に渡り、さらにわが国にもたらされました。善光寺縁起の作者たちが強調したかったことは、善光寺如来こそが欽明天皇一三年(五五二)、百済から渡来した日本初の仏像であるということでしょう。
 「善光寺縁起」による善光寺如来誕生の経緯は置くとして、実際の善光寺如来はどこで作られて、どのような経路をたどって善光寺の本尊として迎えられたのか。坂井衡平は前に述べたように、天平の頃に奈良の都でつくられた内地仏であるという立場を取っています。一方で、善光寺は渡来人が建てた寺であることを主張する人たちは、善光寺如来は「善光寺縁起」に記されているようなわが国初の仏像ではないものの、百済でつくられわが国に運ばれた仏像であるとしています。この真相についても、善光寺如来が永遠の秘仏である以上どこまでも平行線なのです。



Posted by 南宜堂 at 18:50│Comments(0)

 
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