2009年02月17日

■源氏の守護神八幡大菩薩と善光寺の関係は

 源義家には石清水八幡宮にまつわる伝説があります。義家の父頼義が石清水八幡宮に参籠したとき、夢に霊剣を賜る夢を見ました。それが正夢となって目覚めると枕元に三寸の剣が置かれていました。以来この剣は源氏の家宝となったのですが、時を同じくして頼義の妻が懐妊し、生まれた子供が義家でした。
 この話からもわかるように、石清水八幡宮と源氏とは深い絆で結ばれてきました。源頼朝の代になって鎌倉に本拠を移し、頼朝は鶴岡八幡宮を造営しています。以来八幡大菩薩への信仰は、源氏をはじめ当時の武士たちの間に急速に広まり、今でも武運長久の守り神として知られています。
 八幡神のことを八幡大菩薩というのは本地垂迹説によります。本地垂迹説は日本独自の考え方で、本地である仏や菩薩が人々を救うために神となって姿を現すというもので、十世紀頃から盛んに言われるようになりました。八幡神の本地ははじめは釈迦三尊であると信じられていましたが、ある時期を境に、阿弥陀三尊こそが八幡神の本地であるということが言われるようになりました。
 源頼朝が善光寺如来を深く信仰した背景には、このような本地垂迹説による八幡神の本地は阿弥陀三尊であるという思いがあったのではないかと思われます。ある意味で無宗教の世界に生きている私たちは、政治家の行動をさまざまな政治力学から考えてしまいがちですが、まだまだ信仰や怨霊による祟りといったものが深く信じられていた中世世界にあっては、信仰心から善光寺の再建に尽くすということも決して不自然な考え方ではなかったのです。
 頼朝が征夷大将軍となった一二世紀初頭には、善光寺は関東地方を中心に、三国伝来の善光寺如来をまつる寺として多くの人に知れ渡っていました。創建からこの時まで、どのようにして善光寺は発展してきたのか、善光寺が地方の一寺院から「一生に一度は」といわれるほどに有名な寺になったカギは実にこの時期にあったのではないかと思われるのです。



Posted by 南宜堂 at 20:10│Comments(0)

 
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