2009年02月18日

■一遍はなぜ善光寺に参詣したのか

 高野山、熊野、四天王寺そして善光寺と霊場を巡りながら一生を旅に終えた一遍聖は善光寺とゆかりの深い僧です。一遍は生涯に二度(あるいは三度とも)善光寺に詣っています。
 その出自について「一遍ひじりは俗姓は越智氏河野四郎通信が孫、同七郎通広(出家して如仏と号す)が子なり。延応元年己亥予州にして誕生、十歳にして悲母にをくれて、始めて無常の理をさとり給ぬ」(「一遍聖絵」詞書より)という風に弟子の聖戒は書いています。一〇歳で仏門に入った一遍は、建長三年太宰府にいる聖達のもとに弟子入りしています。今でいうなら中学一年生くらいの時に単身で九州まで修行に出かけたのです。
 聖達は、浄土宗の開祖法然の孫弟子に当たり、一遍はここで父の死まで一二年間を浄土教の修行に明け暮れました。父の死により伊予に帰った一遍は、還俗して河野家の家督を継いだようです。
 その後、再度出家して善光寺に参籠するまで、一遍がどんな生活をしていたのかよくわかっていません。再び出家して善光寺に向かわせるような決定的な出来事があったのではないかと研究者は指摘しています。河野氏といえば、没落したとはいえ、四国では有力な武士の頭領です。一遍が家督争いに巻き込まれ、人を殺傷するような事態になったのではないか、不確定な資料ながらそんな記述をしている古文書もあります。
 また、「北条九代記」という書物には、一遍が在俗の頃のエピソードとして次のように記しています。一遍には二人の妾がいた。いずれも美人で気立てがよく、一遍も二人を平等に愛したので、二人の仲はとても睦まじかった。ある日二人は碁盤を枕に仲良くうたたねをしていたが、見るとこの二人の髪がたちまち小さな蛇に変身し、お互いに食い合っている。一遍はそれを見ると刀を抜き、蛇に斬りつけたという。一遍は自らのこの行為を悔い、「これより執心愛念嫉妬の畏るべきことを思ひ知り、輪廻の妄業因果の理を弁へ発心して比叡山に登」ったといいます。
 伝説とでもいっていいようなお話で、そんな事実があったのかどうかは確かではありませんが、善光寺に向かう一遍の心の中には、俗世間の物欲や愛欲に振り回され、どうやっても救いようのないような魂が宿っていたのではないかと思われます。
 一遍は「捨て聖」と呼ばれています。家を捨て、故郷を捨て、家族を捨て、今いる場所、今という時間さえも捨てて一所定めぬ漂白の旅を続ける一遍をリーダーとする時衆の僧尼たち。一遍の根本思想は、すべてを捨て、自分さえも捨ててただ阿弥陀如来の本願に帰依する、無我のうちに「阿弥陀如来」の名号を唱えることこそがその実践なのだということです。そういうトランス状態の中からいわゆる「踊り念仏」というものも自然発生的に生まれてきたのです。
 ある意味ではアナーキーでラジカルな思想なのですが、すべてを捨てるということが共同体から捨てられ、漂白の旅を余儀なくさせられていたらい者、賎民、芸能者たちからの熱狂的な共感を呼んだのです。



Posted by 南宜堂 at 20:12│Comments(0)

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。