2009年02月23日

■説話の語り手はどんな人たちなのか

 古代の仏教説話を集めた『日本霊異記』の冒頭には「諾楽(なら)の右京の薬師寺の沙門景戒録す」と作者の名前が明記されています。『日本霊異記』は全文漢文で書かれています。薬師寺の僧となる前は、現在の和歌山市のあたりに住む半僧半俗の宗教者でした。この景戒という僧は、何のためにこの説話集を編んだのでしょうか。
 説話というのは書いて字の如くで、人に語りかける文学(口承文学)です。人々を前に仏の功徳を語ったのですが、難しい仏教の教説をそのまま語ったのでは民衆はなかなか聞いてくれません。民衆の注意を惹きつけるために、たとえ話などを引いて聴衆を自分のペースに引き込んだことでしょう。この景戒はそういうことに携わる僧侶であったのではないかと推測もできます。
 奈良時代の僧が説話をどのような形で聴衆に語りかけていたのか、法会などを通してだろうと思われますが、ビデオもDVDのなかった時代の記録は文字だけですから、リズムも身振りも伝わっていません。しかし、初期の説話の語りというのは平板なものだったことでしょう。それがだんだんと節をつけて語られるようになり、身振り手振りのパフォーマンスもはでになり、楽器などを使うようになっていったものと思われます。それがやがて説経(説教)とよばれるものに育っていったものでしょう。
 善光寺の境内でささらをすりながら語られたという説経節は、中世も後期の頃のことで、完全に芸能化したものでした。ここに至るまでにもう一段階、僧侶によって語られた説経もあったことを付け加えておかなければなりません。
 どちらも説経で紛らわしいのですが、前者はささら説経とか後には説経浄瑠璃とかいわれるようになり、僧侶の手を離れて完全に芸能のプロである説経師によって語られるようになりました。それに対して後者の説経は、あくまでも僧侶による宗教行為の一環として行われたもので、場所も寺の内部で行われました。この系譜は浄土宗や浄土真宗のを中心に受け継がれ、終戦後まで残っていました。この話芸のルーツといってもいいような説経は、一方では仏門を離れ落語、講談、浪花節などといった大衆演芸に育っていったのです。
 諸国を廻って民衆の間に仏教を広めてあるいたのは、廻国聖、山伏、絵解法師、熊野比丘尼といった下級の宗教者たちだといわれています。説経節のようによりくだけた娯楽性の強いものになると、それを語ったのは宗教者ではありませんでした。荒木繁氏は説経節を語った人々を次のように規定しています。「説経節は元来物もらいのための芸、乞食芸であったのである。」(東洋文庫『説経節』解説)
 本来乞食とはただわけもなく物を乞い、もらって歩く人々ではなく宗教的な修行の一環として人の施しを受けるものであったり、何らかの芸を演じて、その代償としていくばくかの物や金をいただくというものでした。当時の社会にあってはさげすまれ差別される存在だったのです。
 日本の芸能というのは、そんな社会的にはさげすまれてきた人々によって担われ、洗練され発展してきたという歴史があります。説経節のように長い年月の間に歴史の中に埋もれてしまった芸もありますが、歌舞伎、能あるいは落語といった伝統芸能とよばれるようになった芸能もあります。
 説経は、近世の初期には「さんせう大夫」「かるかや」「小栗判官」「信徳丸」「愛護若」といった深い物語性をもったものに大成していくわけですが、この芸は一人の天才によって完成したものではなく、無名の説教師たちの切磋琢磨と聴衆の情念を作品に反映していくということの積み重ねによりなったものです。
 このような芸能者たちの語る物語の中に、善光寺信仰が重要なテーマとして登場しているのは、語る芸能者の中にも、また聞く民衆の間にも、善光寺信仰が深く根付いていたからだと考えることができます。



Posted by 南宜堂 at 14:06│Comments(0)

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。