2009年02月23日

■中世の善光寺町にはどんな人が集まったのか

 応永七年(一四〇〇)八月、信濃国の守護となった小笠原長秀は善光寺に参詣します。そのときのようすを「大塔物語」は次のように伝えています。
「見物の諸人は、善光寺の南大門及び蒼花川の高畠に、履の子を打つ所無し、凡そ善光寺者は、三国一之霊場にして生身弥陀の浄土、日本国之津にして、門前に市を成し、堂上花の如く道俗男女貴賤上下、思々心々の風流、毛挙に不遑、若殿原者は、例の目結の十徳に室町笠引籠、国覆ほひ為せる躰も有、或は児・若僧・中童子・戸隠山之若山臥の云々」。
 一四〇〇年といいますから時代は室町です。大多数の農民は封建制度に縛られていましたが、それ以前の時代と違って農業以外の仕事に従事する人々も増えてきています。商人とか職人といった人々ですが、そのほかにも芸能を生業とする人もおりました。
 職人も芸によって身を立てるという意味では広い意味で芸能民ということもできます。善光寺に関連した、仏師であるとか仏具をつくる職人、袈裟や衣をつくる職人、お寺の修復をする宮大工などが門前に集まっていました。
 善光寺は高野山、熊野、天王寺などと並んで当時の代表的な霊場となっていました。つまり「三国一之霊場にして生身弥陀の浄土」ということですから聖、山伏、説経師、くぐつ、遊女といった人々も多く集まっていたことでしょう。このように想像してくると、中世の善光寺は現在にも劣らないほどのにぎわいであったというのもあながち誇張ではないような気がします。
 そしてこれらの人々を惹きつけるだけの力を善光寺は持っていたということでしょう。それは善光寺如来の力であるといってもいいのです。一遍は自らの生の煩悶を断ち切るために善光寺に参籠しました。一遍に付き従った時宗の僧尼の中には不治の病を抱えた者たちも多かったといいます。彼らは「三国一之霊場にして生身弥陀の浄土」である善光寺にたどり着くことで、如来に救いを求めたのでしょう。くぐつ、遊女といった漂泊の旅を続ける女たちも、女人往生の寺善光寺に安らぐ場所を求めてやってきました。

 善光寺にまつわる中世の伝説や説話のいくつかを見てきたのですが、それらを通して伝わってくるのは、身分の上下を問わず、この時代に生きた人々の往生への願いの切実さです。善光寺はそんな願いを受け止めてくれるこの世の浄土として、人々の信仰を集めてきたのです。



Posted by 南宜堂 at 23:44│Comments(0)

 
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