2009年02月25日

■江戸時代の善光寺詣りはどんなだったのか

 新しい本堂がつくられ、山門や仁王門ができ、大門町から山門までは仲見世が並ぶという、現在に近い善光寺かいわいが形作られたのは江戸時代のことですが、この時代の善光寺詣りとはどんなものであったのでしょうか。
 江戸時代の末期、善光寺には年間二〇万人もの人が訪れていたといいます。伊勢神宮に次いで全国二位の参詣者数を誇っていました。寺院の部だけでは全国堂々の一位ということであって、この頃から既に善光寺の力は絶大であったといえます。
 伊勢神宮の室町以後の隆盛には、御師と呼ばれる下級神官の活躍が大きいといわれていますが、善光寺まいりにも御師のような先達の存在があったのではないかと主張するのは仏教民俗学者の五来重です。あるいは、御師を善光寺聖と呼び代えてもいいのかもしれません。善光寺信仰の普及については伊勢神宮と同様に、下級宗教者の活躍があったとすると、両者にはその信仰の拡大過程について共通するものがあったのだということがいえます。
 善光寺まいりは、伊勢まいりと並んで誰もが「一生に一度は」訪れたいと願っている霊場です。天保年間、九州筑前の国から伊勢まいりと善光寺まいりの旅をした小田宅子という商家の内儀の旅日記「東路日記」を見てみましょう。小田宅子は五十代、当時の感覚からいえばもう老人ともいっていい年齢ですが、思い立って仲間の女性たちと長い旅を敢行しました。
 善光寺に着こうという日の朝、一行は篠ノ井追分を出立します。丹波島で犀川を渡りましたが、当時は渡し船でした。長野の町に入るとまずかるかやさんに詣っています。
 善光寺の宿に入ったのは夕方近くになったようで、その日はお詣りせず直接宿に向かっています。宿坊は持ち郡制となっており、筑前の指定宿である野村坊に泊まることになりました。
 明けて翌日は早起きしてお朝事に向かいました。そこで大勧進貫主さま、大本願上人さまからお数珠をいただき、読経を聞きます。その日は戒壇めぐりをしたり境内のあちらこちらを見て歩いて終わりました。
 その夜は善光寺まいりのクライマックスともいうべきお籠もりを体験しました。お籠もりは現在は行われていませんが、当時はこれが目的で善光寺まいりをする人が多かったといいます。本堂に籠もり善光寺如来と一夜をともにするもので、参詣者たちは極楽にいるような法悦を味わったことでしょう。後に風紀上の理由から禁止されてしまいました。
 小田宅子らの一行は、善光寺に二泊して旅立つわけですが、当時の善光寺まいりはこれが普通だったのでしょう。



Posted by 南宜堂 at 12:51│Comments(0)

 
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