2009年03月06日

街角の郷土史 6

■田面稲荷
 酒まんじゅうのつるやのあたりは、昔はまんじゅうやが多く並び、鐘鋳端のまんじゅうやとして長野の名物でした。今は暗渠となって地下を流れているその鐘鋳川に沿って歩くと、裏権堂町の通りと交わるあたりに田面稲荷という神社があります。
 説明書きを見ますと、むかしお稲荷さんをまつった小さな祠があり、近在の人々の信仰を集めていたとあります。それが地の利もあったのでしょうし、またすぐ横を流れる鐘鋳川と心願が叶う「願いが叶う」にかけて、いつか権堂の遊郭の娼妓たちが多く詣るようになったということです。そんなささいなことにも彼女らは良い知らせの前兆と考えたのでしょうか。
 落語の「居残り佐平次」の話に代表されるように、江戸時代の落語や芝居の舞台には遊郭がよく登場します。十辺舎一九の「膝栗毛」などにも飯盛女のことがおもしろおかしく書かれていたりします。
 今は売春は犯罪ということになっており、おおっぴらにできる職業ではありませんが、江戸時代には吉原のガイドブックなんかも出ており、罪悪視されることは少なかったようです。
 しかし、表の華やかさとは裏腹に彼女らの生活は悲惨であったようです。そもそもが、人身売買によって売られてきたわけですから、勝手な外出はゆるされず、わずかに出かけられるのは神社仏閣にお参りするときだけでした。
 周囲をビルやマンションに囲まれた田面稲荷の境内にたたずんでいると、何か物寂しい気分におそわれるのは、娼婦たちのせつない思いがまだ周囲に漂っているからなのでしょうか。田面稲荷のおきつねさまに祈ったのは、早く年季が明けますようにということだったのか、その願いが見事かないがわとなった娼婦はどのくらいいたのでしょうか。
 権堂に遊郭ができたのは、元禄時代からだといわれています。それ以前に遊女というものがいなかったのかといえば、室町時代の成立になるといわれる「大塔物語」に桜小路の遊女のことが記されていますので、古くからあったのでしょう。くぐつとか白拍子とかうかれめとか売春を行っていた芸能民の存在も知られています。
 最初は職能集団のような形であったものが、やがて管理売春化していくわけですが、その時代は江戸時代の初期であると考えられます。売春という職業は世界最古のものだということがよくいわれます。その是非についてはなかなか難しい問題がありますが、人身売買による管理売春というのは滅びてしかるべきものです。

街角の郷土史 6



Posted by 南宜堂 at 13:58│Comments(0)

 
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