2009年03月07日

街角の郷土史 8

■鶴賀遊廓
 権堂が自然発生的にできた盛り場であるならば、鶴賀遊廓は人工的につくられた町でした。明治五年の解放令から間もない明治一〇年一二月、長野県は次のような布達を出して、遊廓の存在を認めたのです。
「(前略)風儀上取締ノ為メ自今左ノ箇所ヲ以テ遊廓ト定メ士族ヲ除クノ外貸座敷並ニ已ムヲ得ザル事故アリテ、芸娼妓渡世願出候者ハ、詮議之上、同所ニ於テ営業差シ許シ候条(後略)」
 ここでいう長野県内の「左ノ箇所」とは、鶴賀村権堂、岡本村横田耕地(松本市)、常磐城村(上田市)の三カ所でした。鶴賀遊廓は、権堂から東へ五丁の田圃の中に作られ、東西一二〇間、南北八〇間、面積一万坪の広さで、周囲を板塀で囲まれていましたが、西側だけは煉瓦塀で、中央にガス灯のついた大門が設けられていました。明治一七年の統計では、鶴賀遊廓は貸座敷数四二、娼妓数二八七人で県下一の規模でした。
 ここで春をひさぐ娼妓たちの実態はどうだったのでしょうか。彼女らの出身地は、地元の者もいましたが、越後、名古屋、飛騨など遠方から来ている者が多かったようです。彼女らは桂庵とか女衒と呼ばれる娼妓を周旋する業者によって国元から連れてこられました。形式としては、あくまでも娼妓が貸座敷を借りて商売をするということでしたから、貸座敷と交渉して貸付金が決められました。貸付金が決まると健康診断を受け、警察に届け出て鑑札を受け取り、はじめて商売ができるようになったのです。
 娼妓たちの生活はほとんど廓内で行われていました。というのも外出は許されなかったからです。外に出られるのは善光寺詣りか祭りの時だけでした。そんな生活に耐えられず逃走をはかる者もいましたが、たいがいは捕まってせっかんを受けたのです。また、性病、特に梅毒の蔓延は大きな問題でした。県は定期的な検査を義務づけましたが、娼妓の性病への感染は後をたたず、明治一七年には上千歳町に「花柳病院」が設立されました。旧長野保健所の場所です。
 鶴賀遊廓の客は「生坂の煙草商人、越後の魚屋、越中の笠商人、江州の商人、種屋それに土地の者、付近の者」というようにさまざまでした。長野県としては、性病が蔓延することや風俗が乱れることへの恐れがあって、娼妓を一定の場所に隔離する政策をとったのです。それは鶴賀遊廓が町から五百メートルも離れた田圃の中に、しかも塀に囲まれて存在していたことからもわかります。つまり売春を必要悪として、隔離しつつ存続させる政策をとったのです。
 明治五年に出された「芸娼妓等年季奉公人解放令」は、人身売買が野蛮であるという海外からの批判をかわすための法律でもありました。江戸時代の日本には、売春を罪悪視する風潮はなかったのではないかと思われます。どちらかというと性に対してはおおらかであったのが江戸時代でした。
 そんな風潮に抗して、明治になって日本の廃娼運動を担ってきたのはキリスト者たちでした。明治二七年に穂高で芸妓置屋の開設に反対する運動が起きたとき、中心になってささえたのが、後に新宿中村屋を開業する相馬愛蔵、後にキリスト教に基づく博愛主義の私塾研成義塾をつくった小学校教師井口喜源治らによる「東穂高禁酒会」の人たちでした。相馬等のバックボーンは、キリスト教の倫理観でした。しかし、遊廓の現実は売春を倫理的に糾弾する人道主義ではなく、娘たちが春をひさがなければ生きられない農村の貧しさであったのです。

街角の郷土史 8



Posted by 南宜堂 at 22:57│Comments(0)

 
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