2009年03月14日

街角の郷土史 11

■妻科 「信濃の国」誕生の地
 妻科は、長野県庁の北側にある町です。官庁や学校が西の町に作られるようになった明治以降、住宅地として発達してきました。今でも起伏の多い趣のある町で、裾花川から流れる小川が見え隠れし、散歩するにも気持ちの良い町です。
 妻科は、古くからある集落です。妻科神社は延喜式にも見られる神社ですからその頃から人が住んでいたのでしょう。実際この町を歩く時に感じる心地よさは、そんな古来からの生活が積み重ねてきたものなのかもしれません。
 県歌にもなっている「信濃の国」は、ここ妻科で生まれました。正確に言うなら、妻科に住んだ浅井洌、北村季晴という二人の師範学校教師によって生み出されたということですが。
 浅井洌が師範学校の教師となって長野に来たのは明治一九年のことです。それまで浅井は松本にあって開智学校や松本中学の教師をつとめておりました。明治維新までは松本藩の藩士でした。長野に来た当初は立町に住んでおりましたが、その後妻科に移りました。
 明治三一年、信濃教育会では信州にまつわる唱歌の製作を計画して、作詞を浅井に依頼してきました。この辺の事情について、後に浅井自身が語っています。
 「初め此の信濃の国の歌を作りましたのは、明治三十一、二年頃と思いますが、たしかな記憶はありませぬ。動機は信濃教育会において、本県下に関する地理や歴史等の題を選び、それを長野県師範学校の国語担任の内田慶三君とわたしとで手分けして作りました。深く考慮もせずに、只地理歴史の事柄で取り合わせて叙述したに過ぎません。それを当時の師範学校音楽教師依田弁之助君が作曲し、師範生徒などに教えましたがその時は余り歌われずに忘れられていました(後略)」
 これは昭和九年に浅井が、「信濃の国」を作った時のことを思い出して語っているものです。「信濃の国」は信濃教育会からの依頼によって作られたものでした。実はこの時「信濃の国」のほかに「諏訪湖」「浅間山」「川中島」「養蚕」「村上義光」「宗良親王」といった詞が作られ、いずれも依田弁之助が曲をつけています。
 これらの唱歌を作った信濃教育会のねらいについては、浅井の文章には触れられていませんが、おそらく唱歌の教材として当時は適当なものがなかったこと、郷土愛を育てるために唱歌教育を役立てようというような目的があったのではなかろうかと想像するわけです。特に「信濃の国」については、当時から険悪であった南北の対立を解消し、信州一国意識をそだてようという目的もあったのではないかということがいわれていますが、はたしてそうなのか、これは今後の探求に委ねたいと思います。
 いずれにせよ、唱歌は作ったもののたいして歌われることもなくそのうちに忘れられてしまったようです。この忘れられた「信濃の国」をよみがえらせたのが北村季晴でした。
 明治三二年、北村季晴が長野師範の教師になって青森から赴任してきます。この時北村の下宿の世話をしたのが浅井洌でした。浅井はたまたま自分の家の隣に格好の家を見つけ北村に紹介したのです。こんなことから二人の交友がはじまり、「信濃の国」が生まれたというわけです。
 妻科神社の西、善松寺の近くに、「「信濃の国」誕生の地」の標識があります。この辺が二人の住んだ場所なのでしょう。その北村が「信濃の国」に曲をつけるようになったいきさつを再び、浅井洌の回想から振り返ってみましょう。
「次いで明治三十六、七年頃女子師範生徒(男女師範の併置)が秋の運動会に此の歌を遊戯に用いましたが、依田君の作曲あることを知らず、その時の音楽教師北村季晴君に作曲を請いてそれを運動会の日に発表しました。それから此の歌漸次広まり小学児童は勿論、子守も丁稚も途中を歌い歩くようになりました。云々」
 この回想文から見る限り、運動会の遊戯用にと浅井が北村に作曲を依頼したかのように述べられておりますが、この時浅井がすでに曲があることを知らずに北村に作曲を依頼したというのはどうしても浅井の記憶違いというほかはありません。なぜならば、信濃教育会からの依頼は作詞と作曲をセットでなされたものであり、そのことは浅井は知っていたはずだからです。昭和九年というと浅井の晩年です。記憶が薄れていたのでしょう。
 中村佐伝治という人の書いた『信濃の国物語』という本によると、浅井と北村はたまたま下宿が隣同志で親しく行き来していたようで、浅井の家を訪問した北村が「信濃の国」の詞を目にし、「素晴らしい詞だから是非自分に作曲させてほしい」と懇願したと書かれております。
 真相というのは百年以上も時がたってしまうとなかなかわからないもので、当事者たちもいなくなってしまいますし、話を伝え聞いた人たちも年をとってしまいます。ましてや「信濃の国」のような超有名曲になりますと、その成立の過程は半ば伝説となってしまいがちです。
 当時の関係者の人たちの証言を総合して判断するならば、北村作曲の「信濃の国」が運動会の遊戯用に作曲され、発表されたということは間違いないようです。おそらく校長などからでしょうか、運動会用に曲をつくってくれるように依頼されていた音楽教師北村は、たまたま浅井の詞を見てひらめくものがあったのではないでしょうか。彼は後に上京しプロの音楽家になったくらいの人ですから、その感受性は人一倍鋭かったことでしょう。
 浅井洌の詞は信濃教育会の要請により、こどもたちが歌えるような故郷の唱歌を作りたいという事情があって、当時師範学校の教師であった浅井らに作詞作曲を依頼したということでした。しかしこの唱歌は信濃教育会の目論見通りには普及せず、歌われることもなくなってしまったのです。
 その後、病気で休職した依田弁之助に代わって音楽教師として北村季晴が青森から赴任してきます。彼は東京生まれの東京育ち、明治学院から東京音楽学校に進んだという新しい時代の青年でした。
 そんな彼に運動会に行う遊戯の作曲が依頼されたのです。この作曲に彼はずいぶん苦しんだようです。浅井の詞「信濃の国」を選んだのは、詞として格調高く優れているということもあったでしょうが、長野県内の名所旧跡をあまねく詞の中に歌い込んでいるということも北村が選んだ理由ではないかと思うのです。
 師範学校の生徒は県内各地から来ています。教師もまた同様です。この詞が好まれないはずはないと北村は思ったことでしょう。
 さらにこの曲調です。女子の遊戯といえば「美しき天然」といった優雅なメロディーのものが選ばれると思いきや、意表をついて「信濃の国」です。運動会の観客に新鮮な衝撃を与えたことは間違いありません。
 北村自身の言葉ではありませんが、浅井が北村から聞いた話として、先の回想の中で次のように述べています。
「北村君は作曲した後で依田君の作った譜のあることを聞いて、それがあるならば別に作るのではなかったが、知らぬ故に女生徒の請うままに運動会の前に急遽作曲せり、蓋し依田君の譜は高尚にして宜しけれども習ってよく練習せねば誰でもまねることは難しいが、我が作曲は卑近平凡にして誰にもまねがしやすいから広く一般に歌うには我が作曲の方が歌われるならん。但し第四戴は練習を要する云々と語りたり。果たして作曲の難易に関せしにや。」
 最後の一言が意味深です。北村は謙遜してああいっているが、結構自信をもって作曲したのだということが浅井にはわかっていたのでしょう。
 その後の「信濃の国」は師範学校の校歌となり、卒業生によって県内各地のこどもたちに伝えられていったことはご存じの通りです。しかし、あの運動会の日の最初の衝撃がなければ、こうまで長く歌い継がれる曲とはならなかったかもしれません。

街角の郷土史 11



Posted by 南宜堂 at 09:28│Comments(2)

この記事へのコメント

今度北村季晴作曲の宝塚の少女歌劇「ドンブラコ」がCDで出るみたいです。予約か始まったようです。
Posted by trefoglinefan at 2009年03月26日 22:31
テクノラティ様
情報ありがとうございます。
早速検索してみます。
信濃の国と宝塚と小林一三と
ふしぎなつながりに興味は尽きませんね。
Posted by 南宜堂 at 2009年03月27日 13:33

 
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