2009年03月15日

街角の郷土史 12

■柳町の高土手
 鶴賀から柳町通りを越えた柳町中学の近くに赤地蔵をまつった祠があります。このお地蔵さんは延命地蔵といい、旭町の合同庁舎のあたりにあったものです。それが、明治七年、旭町に長野監獄がつくられることになり、この地に移されたものでした。
 この辺を昔は高土手とよんでおりました。長い間ここでえびす講の花火が打ち上げられていたことがありました。長野の初冬の風物詩として知られているえびす講の花火は、毎年一一月一九日から二〇日にかけて行われる西宮神社の恵比寿さまの縁日に打ち上げられるもので、現在では二三日に丹波島橋の近くの犀川の河原で行われています。
 恵比寿さまの縁日には、狭い参道に縁起物を売る露店が並び、一年の福を祈る人々で夜おそくまでにぎわいをみせております。また、長野の商店はこの時期にえびす講大売り出しというものを行っております。かつては米の収穫代金を手にした近郷近在の農家の人々が、冬支度の買い物に訪れ、一年でいちばん賑やかな日でした。しかし、自家用車の普及にともなって郊外に大型店ができ、客がそちらに流れるようになって、売り出しはすっかりさびしくなってしまいました。
 一方の花火大会は、戦争中に中断したものの、戦後になると花火製造技術の進歩もあってますます華麗になり、今ではテレビで中継までされるようになっています。
 えびす講に花火、この組み合わせはいつ頃からはじまったものなのでしょうか。その歴史を調べると、明治三二年(一八九九)「長野市大煙火会」なるものが結成され、そこが中心となって行われるようになったとあります。打ち上げられた場所は、鶴賀遊廓に近い高土手、現在の柳町中学の近くでした。冬の花火はめずらしく、しかも取り入れの終わった農閑期ということもあって、近郷近在から大勢の見物人が訪れたといいます。
 観客は集まったものの、見物料が取れるわけではありませんから、有力商店の寄付が頼みの綱であったのですが、こちらも思うように集まりません。一計を案じた長野市大煙火会の面々は、高土手で打ち上げられる花火がいちばんよく見える場所、鶴賀新地の遊廓の組合に主催を任せるのがよかろう、ということになって、えびす講の花火大会は鶴賀遊郭の楼主たちの寄付で行われることになりました。
 そんなふうにしてしてはじまったえびす講の花火大会でしたが、年々盛大になり、全国に知れ渡るようになってきました。そうなると、今度はいつまでも鶴賀遊廓の事業に止めておいたのでは体裁が悪いと考えたのか、全市的な規模にするべきとの声が上がり、大正五年からは、長野商業会議所の一組織である長野商工懇話会の主催するところとなったのです。主催を引き継いだ商工懇話会の理事長鷲沢平六は、えびす講花火大会にこれまでほとんど成功例がなかった二尺玉の打ち上げを企画しました。
 長野には杜煙火の伝統がありました。杜煙火とは、神社の境内の木に仕掛けをほどこして行われる奉納花火のことで、古いところでは文政七年(一八二四)に久保寺(現在の長野市安茂里)の犀川神社で奉納花火が行われたという記録があります。犀川神社と並んで有名なのは、諏訪神社で行われる瓜割煙火です。このように古くから杜煙火の伝統を受け継ぐ長野では、秋祭りでの花火が今でも盛んで、九月の長野は花火が打ち上げられない日はないといわれるほどです。
 そんな長野の花火作りの技術を見込んで、鷲沢平六は、花火師西沢長蔵に二尺玉の製造を依頼しました。当日大勢の観客が固唾を呑んで見守るなか、二尺玉の打ち上げは見事に成功し、観衆の大喝采を浴びたのはいうまでもありません。
 二尺玉の打ち上げが難しいのは、直径六〇センチ(実寸はその九割くらい)という大玉の製造もさることながら、玉を打ち上げるための筒を作ることの難しさにありました。二尺玉打ち上げ用の木筒の写真が残っていますが、高さはゆうに大人の身長の三倍、太さも一メートルはあろうかという巨木をくりぬいたもので、その回りを竹のたがでぐるぐる巻きにしてあります。
 二尺玉の打ち上げで、えびす講花火はますます華やかになり、全国にその名が知られるようになりました。大正六年一一月二二日付の「信濃毎日新聞」に、二尺玉の打ち上げを見るために集まった大勢の人でにぎわう長野の町のようすがに載っております。
「(前略)午頃からは善光寺にお参りして順次城山に上って煙火を見た。煙火を見るには城山が最も好い場所でおでん屋や蜜柑林檎屋などが露店を張って何れも大繁盛で人々は日当たり好い場や芝の上に真黒に集まって何か食ひ乍ら見物して居た。田町辺から遊郭田圃へ掛けては三時の二尺玉を見んとて押掛ける群衆で一方ならぬ混雑を呈した。(後略)」
 ここに集まったのは、昼の花火を見る人々です。夜は夜で遊廓に繰り出す客と、花火見物の人で大にぎわいであったようです。この当時の花火大会は昼の部と夜の部があって、昼の花火大会にも多くの見物人が押しかけていました。同じ「信濃毎日新聞」の記事に、二尺玉の中に二百羽の紙の烏が込められていたことが記されています。紙の烏はゆったりと空にただよい、それを一生懸命に子どもたちが追いかけたといいます。これは袋物といって、雁皮紙で作られた風船で、戦前の花火大会にはよく使われたものでした。戦後になって風船を追った子どもが事故にでもあってはいけないという理由で禁止になったものです。
 当時はまだ色鮮やかな打ち上げ花火の技術が未熟であったことが昼の花火を盛んにしていたようです。それと打ち上げの時の体を震わす大音響も昼の花火の魅力でした。今はカラーテレビの普及によるせいか、花火を視覚で楽しもうという人がほとんどですが、昔の人は花火の迫力を五感で感じ取ろうとしたようです。
 えびす講の花火は、信州花火の伝統を引き継いでいまも恒例の行事として一一月二三日の夜に行われています。住宅地が郊外に広がっていくのに合わせて打ち上げ場所を移動し、現在は丹波島橋の下流犀川の緑地がその場所となっています。今となっては望むべくもありませんが、「善光寺にお参りして城山に上がって花火を見る」の時代の人がいちばん優雅に花火を楽しんだような気がします。


街角の郷土史 12



Posted by 南宜堂 at 19:54│Comments(0)

 
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