2009年03月16日

街角の郷土史 13

■城山小学校
 城山公園に隣接して城山小学校があります。ここは明治の頃は長野学校といっていて、ここに長野町の役場がありました。この長野町ですが、明治三〇年四月一日を期して市制が布かれることになりました。三国伝来の善光寺如来のお膝元がいつまでも町のままではいけないと、時の首相松方正義らに陳情を重ねてきたのが実ったものです。市制施行の基準は人口二万五千人、長野町の人口は当時で二万九二八五人と三万人に少し足りないくらいでした。この条件には十分あてはまります。
 祝賀式は、長野町の役場で行われました。高崎県知事、中村市長事務取扱をはじめ来賓三百余名が列席しての祝賀式、続いて会場を城山館(現在の蔵春閣の地にあった)に移しての祝宴が盛大に挙行されました。
 明治維新を迎えて、政府の政策で殖産興業が叫ばれるようになっても、長野には近代産業といえるほどのものがなかなか育ちませんでした。明治の末になってさえ、「長野の煙突は鉄道工場と刑務所の二本だけ」と揶揄されるありさまでした。
 そんな長野でしたが、全国で四三番目とはいえ市制を布くまでに人口が増加したのは、何といっても県庁の存在が大きかったのです。袖長野に県庁が新築された明治七年頃から官吏の家ができはじめ、明治八年に師範学校が現在の市立図書館の地に建設され、一一年に県営の模範製糸場が現在の信濃教育会の地にできるなどして長野も町らしい体裁が整えられてきていました。

 鉄道の開業から九年が過ぎた明治三〇年(一八九七)四月一日の朝、長野停車場の前は大変な賑わいでした。浴衣や法被姿の男女と、長野じゅうの祭り屋台が勢揃いしたその壮観、しかもその山車や車の上は、目にも鮮やかに色とりどりの縁起物で飾り立てられていました。
 この日は長野町に市制が布かれた記念すべき日、早朝から停車場の前に集まったのは、そのための祝賀パレードを行おうという各町の山車や俄物二三台でした。
 御祭礼の時とはまた違った熱気があたりに漂っていました。何カ月も前からこの日のために工夫を凝らし、見物人からやんやの喝采を受けようと準備してきた出し物です。他の町に対するライバル意識むきだしで、パレードがはじまる前から興奮は最高潮に達していました。
 長野駅を出発した二三台の出し物は、問御所町の囃し付きの手踊り屋台を先頭に、桜枝町、西之門町の順に拡幅前の中央通りをにぎやかに進んでいきました。大門町からは東横町に折れ、東之門町を経て長野学校(仮庁舎、現在の城山小学校)の前まで行列は延々と続いています。沿道をうめた見物人は、それぞれの出し物を品定めしながら大喜びでした。中には、立町の長熨斗(ながのし 長野市の音にかけたもの)と大酒樽、横町のしない判状と記した大竹刀の飾り物(市内繁盛にかけたもの)など今なら親父ギャグと冷笑されそうな縁起物もありました。
 この日のようすを翌日の「信濃毎日新聞」は「昨日の如く我々の耳目を驚かしたるものはなく、之を我々の記憶する既往総ての催しに比するに、より多く奇なる、より多く珍しき、より多く沢山にして盛んなるはなかりし」と興奮気味に伝えています。
 幕末の頃、鐘鋳川より北、善光寺の境内までを長野村といっていました。酒まんじゅうのつるやから北のあたりです。その中でも善光寺の門前は善光寺町と呼ばれ、人口にして一万人位の宿場と商業の町でした。善光寺町は、参拝客相手の宿屋や土産物屋、茶店などが集まってできたものですが、そのほかにもここは近郷近在から多くの人が集まり市が立つ町でもありました。木綿や麻の集散地として善光寺町は栄えてきたのです。この日のパレードは、そんな長野の町の人々の心意気を示す、一世一代の場であったのです。

街角の郷土史 13



Posted by 南宜堂 at 11:07│Comments(1)

この記事へのコメント

いつも楽しく拝見させていただいています。立町在住の私には“立町の長熨斗”がはまりました。最高です。
Posted by エコマーク at 2009年03月18日 11:46

 
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