2007年02月18日
問6の解説
これも明治時代の話です。鷲津一貫社は運送会社です。作ったのが鷲津貫一郎という人だからでしょうが、なんとなく「裸一貫」を思ってしまいます。というのもこの鷲津社長ここにいたるまで大変な思いをしてきたようです。鷲津家は直参旗本の用人格という家老に次ぐ家格の家であったのですが、明治維新により禄を離れます。貫一郎24歳の時でした。
貫一郎は商売の道に入るのですが、「寿司屋」「床屋」「肉屋」何をやってもうまくいきません。50歳を過ぎた貫一郎は、こうなったら若い頃より習い覚えた乗馬によって再起をはかろうと、東京から馬車を買い、飯田町で乗合馬車を開業したのです。明治25年のことです。その社名が「鷲津一貫社」というわけです。飯田・飯島間を一日二往復しました。
しかし、さすがもと上級武士、貫一郎は御者台に乗り前を向いて馬を走らせるだけ、乗客の乗り降りから料金の徴収まで一切を馬丁に任せきりだったといいます。
やがてこの「鷲津一貫社」息子の光之助の代になると、明治44年に乗合自動車を買い入れ、飯田・伊那間、飯田・辰野間で営業運転を開始しました。社名も南信自動車と改めてしまいました。鷲津一貫社では古くさいと思ったのでしょうか。
貫一郎は商売の道に入るのですが、「寿司屋」「床屋」「肉屋」何をやってもうまくいきません。50歳を過ぎた貫一郎は、こうなったら若い頃より習い覚えた乗馬によって再起をはかろうと、東京から馬車を買い、飯田町で乗合馬車を開業したのです。明治25年のことです。その社名が「鷲津一貫社」というわけです。飯田・飯島間を一日二往復しました。
しかし、さすがもと上級武士、貫一郎は御者台に乗り前を向いて馬を走らせるだけ、乗客の乗り降りから料金の徴収まで一切を馬丁に任せきりだったといいます。
やがてこの「鷲津一貫社」息子の光之助の代になると、明治44年に乗合自動車を買い入れ、飯田・伊那間、飯田・辰野間で営業運転を開始しました。社名も南信自動車と改めてしまいました。鷲津一貫社では古くさいと思ったのでしょうか。
Posted by 南宜堂 at 22:11│Comments(0)